3.11から三ヶ月が過ぎ、100日も通り過ぎて行った。3.11は東日本大震災の日だし、巨大な地震と津波による被害は未だに多くの後遺症を残したままである。店舗や工場の再開や漁船の修理なども思うに任せず、住宅や学校なども呆然たる中に漂っている。現に避難している者も12万4千人と伝えられているし(15日NHKテレビ)、行方不明者も7千人を超えている(6.20警察庁発表、死者15467人、行方不明者7482人。6.21朝日新聞)。
 だがそれでも人々は復興に向って少しずつ歩き始めている。道端に積まれている震災前にはそれぞれきちんと利用されていたであろうさまざまを、瓦礫とかごみなどと呼んで一まとめにしてしまうことにはいささか抵抗があるけれど、道路も港も整理されて少しずつきれいになっていっている。

 ところで、同じ災害に起因する事故ではあるけれど、3.11は福島第一原発が崩壊した日でもある。その事故処理に東京電力が必死に力を注いでいるであろうことは、毎日の報道からも理解できないではない。相手は目に見えない放射能なのだから、場合によっては命がけの仕事であろうことだって想像できないではない。それにもかかわらず、崩壊した原子炉の処理は遅々として進んでいないように思える。

 当面の処理の問題は、原子炉を冷却するために注入している水が、原子炉が破損したことにより炉外に漏れていることにある。核反応による放射能の拡大を避けるためには核燃料を冷却するしかなく、電力による冷却装置が壊れていて使えない以上、水の注入による冷却方法しか手段がない。しかもその水が放射能を帯びたまま炉外へと漏れ出し、このままでは敷地内から間もなく海へと漏れ出す危険があるといわれている。今まではその汚染水をなんとか敷地内に溜めておくことで対処してきたが、受け皿がざるになってしまっていることで汚染水は増える一方である。その処理をどうするか、それで考えられたのが注入水の循環である。原子炉を冷却した水は放射能で汚染されるが、その放射能を科学的な方法で吸着・濃縮して分離し、放射能の極めて少ない水に再生して再度注入水として利用する方法である。

 この作業がつい数日前から始まった。何と言っても汚染水を溜めておく場所の容量が数日〜一週間程度の余裕しかなく、この装置が作動しなければ敷地内そして敷地外や海洋へと溢れ出すことが確実視されているのである。と言ってもこの放射能除去装置は、単一の装置ではない。砂や泥などのごみを除去する装置が一つ、放射性セシウムとそれ以外放射能を除去するための装置が二つ、そして塩分を取り除いて真水にする装置が一つと、都合4つの装置が連結されて始めて目的が達成されることになっている。ところがそれぞれの装置が全部外国製、それもフランス、アメリカなど異なる国の製品になっているのである。つまり、わが国にはこれに対応するような装置が存在していないのである。

 数日の試運転を経て4〜5日前から本格作動となった。ところが僅か5時間(後日の報道によれば一時間程度)でこの作業は中断されることになった。原因は第一段階の砂や泥などを除去する装置のフィルターに、通常なら一ヶ月以上交換不要とされていたにもかかわらず、数時間で交換が必要との放射能濃度が検出されてしまったからである。装置の交換や汚染水の流通経路などの確認、そして再び試運転へと再起動などの検討がされている。
 そして更に今度は第二段階の放射性セシウム除去装置も期待されていた能力の数十分の一程度の効果しか示さないなどのトラブルが起き、再び全体が中断している。
 タイムリミットが迫っているとは言いながら、装置が思惑通りに作動しないのだから、点検や試運転を繰り返すことは当然のことである。ただ私は、事故から100日を経てなおこのような状態に止まっていることで、日本には少なくともこの程度の放射能事故に対する処理能力がまったくないことを示したのであり、その事実にとても悲観してしまったのである。

 今回の巨大地震に関して、当初比較的安易に使われていた「想定外の事故だったから」との表現に対して、余りにも言い訳過ぎるとの批判があり、それ以降なぜか「想定外」は禁句になってしまっているようだ。私はどんなことだって、これから起きるであろうことに対しては、一つの「想定」を立てたうえで予算付けや対応をしていかなければならないのは当然だと思っている(別稿「原発の未来」参照)。その想定が甘いのかどうかの検証はともあれ、一定の想定を立てないことには対策もまた動いていかないだろうと思うからである。

 そしてそのことは同時に対策には「想定外」をも考慮にいれておくべきだと考える。世の中に「絶対」はあり得ない。原発に対処する方法にしたところで、結局は一定の想定による地震の大きさや津波の高さなどを予想して建物の強度や防潮堤の高さなどを考えていかなければならないだろう。でもその想定を超える場合がないとの保証はない。空から航空機が落ちてくることや、外国からの原爆などの投下、パンゲアに匹敵するような大陸移動の再発、巨大隕石の衝突などなど、「仮に想定できたとしても対処することは不可能」なことはいくらでもあると思うのである。

 だからと言って、「そうした事態は想定しない」であるとか「そうした事態は発生しない」などとして放棄していいとは思わない。それはむしろ「ここまでは対処できるけれど、それを超えるような事態が起きてしまったら現在の予算や技術ではお手上げである」ことを事実として認め、そして公表し、それでもなおそうした危険を受ける利益とのバランスで受容できるかを国民なり近隣住民に問いかける必要があるのではないかと思う。

 今回の原発事故の最大の教訓は、「想定できないことは起き得ない」として想定を超えるような事態に対処すべき議論に蓋をしてしまったことである。そして今、私たちは「対処できない」ことは「起き得ない」とした国なり東京電力の判断の甘さのつけを負っているのである。

 最近、点検などのために休止している原子炉の再起動が問題になっている。認可する知事などが世論の動きを図りかねて二の足を踏んでいるようだ。そうした議論に住民の意見も聞くため、発電所や行政を含めた討論会みたいなものが開かれ、それを中継するようなニュースが流れた。どんな基準で討論に参加する住民を選んだのか分からないけれど、会場外での反対住民のデモやシュプレヒコールとは裏腹に、討論会では住民からの質問に電力側はすべて「新たに○○のような対策を加えていますので再稼動しても安全です」との回答に終始していた。そして、「こんな事故が発生した場合には対処できません」との意見は何一つ示されることはなかった。ここでも「対処できないような災害はそもそも発生しない」との理屈がまかり通っていることに、私はどこか福島事故の教訓が一つも生かされていないように感じてしまったのである。

 原発事故の始末は、福島第一原発の原子炉の廃棄も含めた後始末のみならず、日本中の原子炉の安全神話のゆらぎへと発展し、世界の原子力発電の将来へと波及していっている。
 私の得ている福島原発における政府や東京電力などの対応の情報は、つまるところマスコミ報道によるしかない。だから現実にどんな努力がなされ、どんな風に進展し、どの程度の目処がたっているのかもまた、あいまいな知識のままである。千人を超えるといわれる作業員たちは、恐らく必死な思いで取り組んでいるのだろうし、目立たなくとも処理はそれなりに進んでいるのだろう。

 それでも私は、日本は少なくとも福島原発事故にきちんと対処するだけの力は持っていないと思うのである。巨大隕石の衝突で恐竜が絶滅したような現象が起きたなら、現代科学をもってしても恐らく私たちはそれに対処することなどできないだろう。でも事故には震度1程度の地震から隕石衝突による地球破壊に類似するような事態にまで、想定はさまざま可能だろう。今回の東日本大震災による影響が、そうした線引きのどの辺に位置するのか必ずしも理解できてはいないけれど、それでもこれしきの事故に対しても日本や世界の技術は目に見えるような形では対処していけないことを現実が示している。

 もう一度言う。ここまでは対応できること、ここを超えたら対応できないこと、それらをきちんと整理し説明し開示し、その対応できない境界を踏まえたうえで、それでもなお原発を選ぶのかどうかを国は国民に問いかけるべきだと思うのである。

 これからの意見は単なる私個人の空想に過ぎないから、論理的に破綻しているかも知れない。それでも私は、思うのである。原発の一番の問題点は安全であり、それはそのまま放射能の始末にある。そしてその放射能は目に見えず、しかも数年数十年、場合によっては数万年という未来に向って人体に影響を与え続けるのであり、しかも一方において人類はその放射能をコントロールできないことにある。
 だとすれば放射能をコントロールすること、それも単に遮蔽するとか濃縮して閉じ込めるなどと言った方法ではなく、こんな言い方はまさに空想だとは思うけれど、「煮たり焼いたりして放射能を消滅させるような手段」が見つかるまでは、原発の利用を封印してしまうしかないのでないかと思うのである。少なくとも現在の技術では人類に放射能をコントロールすることは不可能だと言われているからである。

 ダムの決壊やボイラーの爆発など、水力発電や火力発電にだって危険とそのコントロールは密接不離である。風力発電や太陽光発電にしたところで、同じように危険はついて回るだろう。それでもその程度までに原子力をコントロールできる、つまり放射能そのものをコントロールできるようになるまで、原子力発電は地上から封印してしまうしかないのではないだろうか。たとえそれが私たちの生活を不便の彼方へと追いやることになるとしても・・・である。



                                     2011.6.23    佐々木利夫


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原発の封印