今回の放射能漏れに対する政府なり識者の見解は、要約するなら「直ちに健康に影響はない」である。その根拠は前回の発表(別項「放射能の安全基準」、「再び安全基準と風評」参照)にも示したのでここでは省略するが、どうにも隔靴掻痒のイメージが強くどこか「嘘を言っているのではないか」との思いを抱かされる。
 ところで福島での原発事故は海外でも重大な反響を呼んでいる。世界の主要国のほとんどが原発を導入しており、日本の約三分の一をはじめ、アメリカは最大数の原子炉を持っているし、フランスは国内電力需要の80%を原子力に頼っていると言われている。今や原子力発電なしで文明の維持そのものが成り立たないかのように原子炉は世界に拡散している。しかもこれに拍車をかけているのが地球温暖化である。太陽光や風力や水力などの自然エネルギーの転換による発電もそれなり研究されているが、現実の発電は火力(石炭や石油)によるところが多く、それは結局二酸化炭素の排出に結びつくからである。原子力は二酸化炭素を排出しない、このことが後進国へ原子炉そのものを撒き散らす原因にもなっている。しかも先進国は原子炉を後進国へ売り込むことは自国のビジネスチャンスにもなるからである。

 しかし原子力発電には致命的な欠陥がある。「安全であること」が何にも増して要求されるにもかかわらず、その安全が常に揺らいでいるからである。これまでの原発事故はソ連のチェルノブイリ、アメリカのスリーマィルなどが報告されている。その安全神話がこの地震によって脆くも崩れ去ろうとしている。早速、東京電力と東北電力は「計画停電」を打ち出した。供給できる電力が不足し、他の電力会社からの不足分の調達がままならないので、地区と時間を定めてあらかじめ停電を実施するというものである。私たちは世界も含めて「原子力による電力の贅沢使用」か、それとも「二酸化炭素の排出を抑え電力を節約するか」の二者択一を迫られることになったのである。

 こうした背景の下で政府も電力会社も、どこかで原子力発電を残したいと考えているような気がしてならない。恐らく電力にすっかり頼りきっている現代で、「節約を国民に強いることは難しいのではないか」との思惑があるからではないだろうか。それはつまり「多少危険でも原子力発電を否定してまで耐乏生活を選ぶような国民は存在しないのではないか」との、やや傲慢な思いがあるようにも思える。

 先にも書いたけれど、原子力発電の最大のイメージはクリーンである。もちろんそうは言ってもエネルギーそのものの発生がクリーンでも、膨大な設備に必要な材料となるコンクリートや鉄などが二酸化炭素のかたまりであるのだから一概にはクリーンとは言えないかも知れない。それでも「石炭を燃やして発電する」ことと「ウランやプルトニュウムなどの核分裂を利用して発電する」ことだけを比較するなら、後者に二酸化炭素の排出のないことは明らかである。
 地球温暖化は世界中のテーマである。地球が滅ぶとまで言われるほどにも切実である。だから先進国はもとより後進国も、自国の経済発展との兼ね合いがあってなかなか国際的な合意にまでは届かないまでも目指すところに違いはない。だから中国はもとよりアフリカ諸国までが原発を視野に入れている。いやいや具体的に発注にまでいたっている。

 そうした世界の動きに対して今回の福島第一原発の事故は、決定的な影響を与えた。原発反対の動きは各国にあったけれど、その動きに今回の事故は拍車をかけることになった。そうした動きそのものに否やは言うまい。私が思うのは原発の安全神話が崩れたことにあると思うのである。

 どこまでやれば安全と言えるのか、現代は常にこうした問題にさらされている。原発事故があった数日後、新聞にこんな投書が載った。

 「『小学生の疑問の方が科学的とは』、・・・原発関係者の『想定外』という言葉を聞き、東京電力運営の『電力館』での出来事を思い出した。見学に来ていた小学生の一人が案内役の『質問ありますか』の声に、『これが壊れたら?』、『その場合はこれが働くので大丈夫です』、『じゃあ、もしそれも壊れたら・・・』、『その場合にもこれが働くので大丈夫です』、『それも壊れたら?』、『そんなことありません!』。説明に窮した案内役はとうとう怒り出してしまった。今にして思えば、この小学生の素朴な指摘の方が科学的だったのだ。・・・」(2011.3.26、朝日新聞、62歳男性)。

 私はこの意見に必ずしも与しない。こうした質問はどこまでいっても際限がないのだし、ましてやそうした際限のなさを「科学的」などと言うのはもってのほかだと思うからである。安全対策とはどこかで「想定する被害」を前提としなければ成立しない。津波対策で防潮堤を作る。今回は宮城県田老町で9メートルの防潮堤を超える津波が押し寄せた。結果的にこの防潮堤は役に立たなかったけれど、それを作るときにこの小学生の疑問を重ねてしまったら防潮堤そのものの工事が否定されてしまうことになる。10メートルなら、もしそれを超えたら、20メートルなら、それでも超えたら・・・は際限なく続いていくからである。100メートルなら大丈夫だろうか、それでもそれを超える津波が来て壊れてしまったら・・・。「恐らく50メートルを超える津波は発生しないだろう」、それは一種の想定である。それだって巨大隕石が降ってきた場合の津波を防げるとは限らないだろう。

 仮に町そのものを決して津波の来ない高台(これとても一種の想定ではあるのだが)に移したり、海岸近くに高層の避難ビルみたいなものを建築して人家の流失はあっても少なくとも人命だけは救うというようなシステムを構築することも可能である。もちろんそれだって人命は救えても営々と築いてきた家庭や仕事を失う可能性は否定できないから、そうした被害もまた安全の範囲内に含まれると言われればそれまでのことではあるけれど・・・。

 だから私は想定にしろ仮定による一つの基準を設け、それにしたがって建物や堤防などを作ることは止むを得ないと思うのである。もちろん、「想定の甘さや安易さ」はきちんと検証されるべきだろうが、「想定する」ことそのものは必要なことだと思うのである。もちろん想定に当たっては、経済効率や利便性のみで判断することなく可能な限り科学的根拠に基づくべきことは当然である。

 でもたった一つ、確実な安全策がある。津波や地震などの自然災害に対しては、少なくとも今の私たちは無力である。でも人為を基本とした災害には確実な安全策が一つだけ存在する。それは「作らないこと」である。原発を作らないことを私たちが選択したとしたら、少なくとも原発に伴う事故は決して起きないということである。

 交通事故は車があるから起きるのだとする発想は、そんなに荒唐無稽な話ではないような気がする。もちろん現代社会で車を否定するなどは非現実的かも知れない。だが現に渋滞や排気ガス汚染などに対処するため、例えば日時を決めて偶数番号の車のみの通行を認めるとか特定の車種の通行を制限するなどの施策は世界的には現実のものになっている。その程度の規制では交通事故の根絶には遠く届かないだろうけれど、それでもこうした考えは「車なければ交通事故なし」の発想の途上にあるのではないかと思う。

 ここまで国民生活に浸透している電力依存の体質を変えるのは、意識の変革にまで及ばざるを得ないのでそんなに簡単ではないだろう。しかも太陽光や風力、地熱や潮汐力、更には燃料電池なども含めて、自然エネルギーの開発はまだまだ途上段階にある。石炭石油に依存した発電はどこかで縮小に向かわなければならず、かといって太陽光などを利用した発電にはコスト面での限界がある。どこまで私たちは省エネによる不便さや高負担に耐えられるか問題は山積しているけれど、それでも原子力発電を断念することで放射能に伴う不安だけは確実に避けることができるのは事実である。世界には暴力や災害などたくさんの危機が山積しているけれど、少なくとも原子炉事故に伴う放射能の心配だけはこれで全くの杞憂に帰すことになることだけは間違いがない。



                                     2011.4.15    佐々木利夫


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