懲りない男はとうとうツァラツストラへ挑戦することになった(別稿「懲りない男」参照)。図書館から書名などを頼りに予約をする場合、書架から直接引き出すのと違って本のイメージ(例えば文字の大きさや一段組みか二段組かの様子、翻訳語の難解さ、本の体裁の大きさや厚さなどなど)がなかなかつかみにくく、メールで予約した本が届いたとの連絡を受けて受け取りに行ったときの安心感や落胆さには微妙な食い違いがある。つまりは初対面で受ける付き合いやすさの第一印象とでも言うべきものだろうか。

 さてこの著作、「こうツァラツストラは語った」(著者ニィチエ、高橋健二・秋山英夫訳、河出書房新社)の第一印象は、どちらかと言えばいささか重荷の感触であった。もちろん読んでないのだから、その内容が分かるわけではない。でもまず活字が小さい、しかも二段組でページ数は300を超えていて、発行が昭和36年とあるから、いかにも古色蒼然とした趣を呈している。これまでどの程度人に読まれたかなどの経歴は明らかではないけれど、ここ数年誰の手にも触れなかった気配が書庫の奥に長年積まれていたであろうかび臭さともどもぷんぷんと漂ってくる。

 しかし読み始めて3ページ目で発見した私にとっての彼の名言、「神は死んだ」(「懲りない男」参照)の触発もある。とにかくこの世界的名著に登攀しようとした意気込みだけは自分自身にも説得していかなければならないだろう。

 とは言いながらも、表題に併記してある副題からして人を馬鹿にしているような気がした。「万人のための、そして、だれのためでもない本」とはいったいどういうことなのだろう。もしかしたら、「多くの人に読んでもらいたいけれど、きっとだれ一人としてこの本を理解できる者などいないだろう」とでも言いたいのだろうか。だとすれば書名そのものが、すでに私の理解力を最初から見透かしていて、挑戦しようしている私の努力そのものを無謀だと見下しているような気さえするではないか。

 この著作は、直前に挑戦した「善悪の彼岸」と同様に、2〜3ページのまとめられた短文の積み重ねからできている。だからそれぞれの短文の内容が理解できるか、納得できるかどうかはともかくとして、比較的読み進めやすい区切りで書かれている。
 それぞれの短文の多くには、「三つの変化について」、「道徳の教壇について」、「背後世界について」などと言ったタイトルがつけられている。そしてそのタイトルに続く内容こそがニィチエの哲学であり、思想であり、かつその短文の末尾には常に「こうツァラツストラは語った。」との一文が添えられている。この付け加えられた一言がこの著作の表題になっているゆえんである。

 ニィチエのもう一つの哲学の背景は「超人」である。私にはニィチエがツァラツストラを超人として位置づけたのかどうかについてまるで知識がない。ただ山中で10年もの歳月を過ごしたツァラツストラが人々に説教を行うために山を降りるというこの著作の構成は、どこかイエス・キリストが山の上で弟子たちや群集に人のあるべき姿を語ったとされる聖書の「山上の垂訓」(新約聖書マタイによる福音書5〜7章)を思わせるような気のしないでもない。

 「だれでもが読むことを学びうるということが、長い間には、書くことばかりでなく、考えることをも腐敗させる。かつては精神は神であった。やがて精神は人間となった。今では精神は衆愚にさえなる」(第一部、ツァラツストラの言説、読むことと書くことについて)。

 安逸な読書には、人を衆愚へと貶める要素が含まれていると言いたいのだろうか。読むことと学ぶことの違いの中に、人は己を埋没させる恐れさえ潜ませているのかも知れない。「読む」とはいったい何なのだろうか。

 「国家とはあらゆる冷たい怪物の中のもっとも冷たいものである。それはまた冷たくあざむく。そのうそは国家の口からはいだす。『自分は、国家は、すなわち民衆である』と」(ツァラツストラの言説、新しい偶像について)。

 国家とは虚構なのだろうか。国民とはいったい何を言うのだろうか。人は個人として確かに存在する。多数の人もまた肉体として存在する。その多数を民衆と呼んでいいのかも知れない。でもそれが一つの組織になったとき、その集団は怪物と化すものなのだろうか。政治も戦争も、はたまた平和と呼ばれる幻想でさえもが「国家の口」から語られることは、ニィチエの時代も現代も変ることはない。そうした国家の意思もまた「うそ」であり幻想でもあるのだろうか。

 「自分の知るところに反して語るものだけが、うそをつくのではない。自分の無知に反して語るものこそ、うそをつくものである。・・・ある者は、自分を求めるがゆえに、隣人のもと行き、またある者は、自分を失うことを欲するゆえに、隣人のもとに行く」(ツァラツストラの言説、隣人愛について)。

 キリスト教義の基本である隣人愛にすら、ニィチエは疑問を投げかける。つまるところ隣人愛もまた己だけを守り美化するための秘密の隠れ家にしか過ぎないのだろうか。無知と嘘の対比は強烈である。

 「多くの者は死ぬのがおそすぎ、ある者は死ぬのが早すぎる。『しかるべき時に死ね!』という教えは今なお耳あたらしく聞こえる」(ツァラツストラの言説、自由な死について)。

 ニィチエはこの文章の中で「まことに・・・キリストは早く死んだ」と語り、もう少し彼が長く生きていたなら「みずからその教えを撤回しただろう」とも言っている。人には死ぬに適した時とも年齢とも言うべきタイミングがあると言いたいのだろうか。しかも彼はそのタイミングは自らが選ぶべきだと語っているのだろうか。

 「・・・まことに現代人よ、きみたちはきみ自身の顔よりすぐれた仮面をつけることはできないだろう・・・」(第二部、教養の国について)。

 この一言のなんと痛烈なことか。人は己を隠すために仮面をつける。仮面をつけることで人は他者になれるかも知れないとの密かな願望さえ抱く。だがこの一言はそれをあっさりと打ち砕き、私たちは、自らの顔でいることそのものが、もっとも優れた仮面なのだと暴露する。

 さて、ニィチエの「こうツァラツストラは語った」はこうした警句とも箴言ともつかぬ小文の積み重ねからできている。一つ一つの文章を読み進めていくことそのものにそれほどの時間は要しなかったけれど、それでもタイトルから内容を想像し、そこからニィチエの意思を探ろうとする思いにはけっこう疲れてしまった。通勤電車で、事務所で、そして寝床へ持ち込んでの挑戦だったけれど、なかなかページは思うように進んではくれなかった。
 図書館の貸し出し期限は二週間である。もちろん延長も他に予約している者がない限り一回に限り可能である。再度、つまり三度目の延長は駄目ですと念を押されていたけれど、誰からも予約がなく恐らくこれからも書庫の肥やしになる可能性の高いこうした本について、図書館の職員も同情してくれたのか三度目の延長を認めてくれた。

 それでもなお、この本のページは遅々として進まなかった。一度返却し、再予約する、こうした手法を使うなら理屈の上では何度でも借りることは可能だろう。それよりも古書店で探してみるならこうした本はそれほど人気が高いとは思えないから一冊数百円くらいで手に入れることだってできそうな気がする。そうしたことも考えたけれど、ちょうど三度目の延長でこの著作の半分である第二部まで読み終えることができたことで、思い切って区切りをつけることにした。読み終えたことと理解できたこととはまるで別であると分かったからである。ここでさかしらに理解できたふりをしたところで、恐らくは誤解、誤読にまみれた解釈になっていることは明らかだと自分でも分かってきたからである。
 だからここでツァラツストラから一度離れることにしたのである。気持ちの上では再びその気になったら再挑戦してみようと思わないでもないけれど、恐らくそうした機会は巡ってこないような予感がしている。つまり私は、ツァラツストラの世界へ果敢にも挑戦したけれど、半分を読み終えたところで挫折したのである。ツァラツストラの世界に遊ぼうと考えた我が思いは、つまるところ幻想に終わったのである。

 これに懲りて、二度とこんな哲学への挑戦など考えないか、それともむかし哲学に凝った大学生が酒に酔って高歌放吟していたという「デカンショ節」(本当は出稼ぎに行きましょうの意味らしいけれど、もっぱら、デカルト、カント、ショーペンハウエルと言う哲学者三人の名前のイニシャルを並べたものだとの俗説の方が信じられていた)でもなぞって、デカルトかショーペンハウエルにでも懲りない性分を発揮することになるのだろうか。当面はまさに「ニィチエで懲り懲り」ではあるのだが、実はもう少し悩んでいることがある。

 それは私の吸い取り紙機能がその用をなさなくなってきているのではないかとの疑念である。誰でもそうだろうけれど、高校生から20歳代にかけての私は色々なものに興味を持ち、手当たり次第につまみ食いを重ねていた。それは理解などとはまるでかけ離れた仮想の世界の自己満足ではあったけれど、それでも「分かった振り」をすることの中に一つの自分が存在していたように感じる。それはまさに「手当たり次第の吸い取り紙」みたいなものだっただろうけれど、そんな吸い取り紙が今の私からは消えてしまっているような気がしてならない。

 大人になることだとか歳を加えていくと言うことは、かつての吸い取り紙があたかも焦がれるかのようにも自らの中に閉じ込めていった、愚にもつかないこと、どうでもいいこと、何の役にも立たないだろうことどもの多くを、あっさりと投げ捨てていくことだったのかも知れない。そしてその結果吸い取り紙は吸い取る対象を選ぶどころか、吸い取り紙である機能を自ら放棄し、見かけ上は上質な光沢紙へと変貌させてしまったのかも知れない。たとえ錯覚にしろ、感動する心を私は少しずつ失っていって、すでにニィチエなどとは無縁の世界に閉じ込められてしまっているのだろうか。


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                                          2011.8.30    佐々木利夫


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