「懲りない男」という言葉からは、どちらかと言うと微罪を繰り返して刑務所へ何度も往復する男の姿を連想する。つまりは反省不足、過去の失敗から学べない、同じような失敗を何度も繰り返す小心な犯罪者、そんなイメージが私にはすぐに浮かんでくる。そうしたことからもう少し広げるなら、学習能力の足りない人物の総称でもあるようだ。こうした傾向は別に男に限らず女子供にだって共通しているはずなのだが、男を連想させるのはそれだけ男には過去の教訓を忘れやすく、同じ失敗を繰り返す傾向が強いからなのかも知れない。

 こんな言葉でこのエッセイを書き始めたのは、かく言う私自身にこの「懲りない男」としての刻印を押してもいいような事態が最近発生してしまったからであった。自分にしろ他人に対してにしろ、「懲りない奴だ」と言うことはその対象に対して過去の経験から学習する能力が不足していることを宣言しているのと同じである。
 「人間なんてのは大体がそんなもんさ」と、いかにもしたり顔で悟ったふりをしてもいいのだけれど、反省への学習もまた人を前進させている原動力の一つになっていることくらい認めてもいいだろう。だとすればその対象が我が身だとなれば、それほどのんびりもしていられない。「我れ日に三省す」、「日々反省」、「過ちを改むるにはばかるなかれ」などなど、反省への努力が人の立ち直りを示唆している言葉は古来から存在している。しかしそれでもなお懲りないと思われる事実が、つい最近の私にも発生していたのである。

 私がカントの「純粋理性批判」に挫折し(別稿「カントへの無謀な挑戦」参照)、ニーチェの「善悪の彼岸」にも読み終えることはできたものの同じような経験をしたこと(別稿「やったぜニーチェ(1)」参照)は前にも書いたとおりである。これほど手ひどく己の限界を見せつけられたのだから、そうした事実からすればこうした分野への私の登攀能力は最初から欠けていたのだと学んでもいいはずである。それにもかかわらず、私はまたまたニーチェの著作「こうツァラツストラは語った」を図書館から借りてしまったのである。

 ニーチェのこの著作についての知識は、私が24〜5歳までは著書名も含めて皆無に近かった。私がこの書名を知ったのは映画音楽からであった。そんなタイトルの映画があったわけではない。私の大好きなSF映画に「2001年宇宙の旅」がある。この中に使われている音楽にはヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」など馴染みの曲もあったが、冒頭から魂が震わされるような壮大とも厳粛とも畏怖・畏敬とも感じられるような一曲がスクリーンから流れてきたのを今でも思い出す。当時私はその曲を知らなかったけれど、やがてそれがリヒャルト・シュトラウスの作曲による「ツァラツストラかく語りき」の一部だと知り、しかも彼がニイチェの同名の著作から触発されて作曲した音楽だったと知ることになったのがこの書名を知ったきっかけであった。

 とは言えそれだけの話である。ニイチェに特別な興味があったわけではないし、曲そのものは何度か聞く機会があったものの、それがニーチェの著作にまで届くことなどまるでなかった。でも最近「善悪の彼岸」を理解できないまでも読み終えたことで、ツァラツストラという書名にも連想が及んできたのである。そして、どうせ駄目だろうけれど最初の数ページくらいでも触ってみようかと思いたったのである。どうしてか、これがまた懲りない男の懲りない性分とでも言うことであろうか。

 そして読み始めてすぐ、この本の内容の3ページ目、第一部「ツァラツストラの序言 2」の末尾に「神は死んだ」の一言を見つけたのであった。私がニィチエの名を僅かにもしろ記憶にとどめていた理由は、この言葉のせいである。この一言は、当時高校生だった私に理由なしに衝撃を与えた。ニィチエがどんな意味でこの言葉を発したのか、そしてそれが彼の哲学者としての位置づけとどんな関連があるのか、そんなことすらまるで理解できていなかった。ただただ、絶対的で疑うことすら許されないように思い込んでいた「神の存在」を、ただの一言で「死んだ」と言い切ってしまっていることに、快哉と言うのとは少し違うけれど哲学に興味を持ち始めていた私にとって新しい扉が開かれたように感じたのであった。

 文庫本スタイルの安価な哲学小事典を手元から離すことなく、「哲学」という文字だけに心酔していた高校生の私だったから、ニィチエの名前くらいは知っていた。だがニィチエが何者か、どんな思想の持ち主なのかなどはまるで知らない幼稚な高校生でもあった。1844年にドイツで生まれ、45歳で発狂して1900年に死んだ。そして世界に名の知られた哲学者であり、「神は死んだ」と宣言したと辞書に書いてある、そんなことだけで当時の私にはニィチエの理解としては十分であった。

 私の借りた本は「河出書房新社、世界大思想全集、哲学・文芸思想篇14」である。この一冊にはニィチエの「こうツァラツストラは語った」(高橋健二・秋山英夫訳)が収められている。ただ私がこれまでの長い間抱いていた著書の題名は、クラシック音楽の題名と同様の「ツァラツストラかく語りき」であったことから、その記憶と実際の書名との間にいささかの違和感がないではない。
 ともあれ私は「ツァラツストラ」が何を意味しているかの意味さえも知らないまま、未知の大海原へと羅針盤もなしに漂い始めたのである。それはまさに無謀、そして懲りない性分そのままの船出ではあった。ただどこかで「分からなかったら、それはそれでいい。そこから引き返せばいいや」みたいな無責任さの伴う旅立ちでもあった。だとすれば、こんな気分でスタートしたことそのものの中に、懲りない性分の根っこが含まれていたのかも知れない。


                                 後編の「ツァラツストラ幻想」へ続きます。


                                     2011.8.23    佐々木利夫


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