歳を重ねるということは、一面「今時の若い者は・・・」を重ねることでもある。青臭い意見や行動が、どうにも危なっかしく見えたり感じたり、時に間違っていると感じたりすることは、そうした青臭さに己がついていけないことへのひがみなのかも知れない。「私だったらそんなことはしない」と思ったところで、60年70年を生きてきた経験や考えが、そのまま正論や正義に変質させるものではない。仮に「自分だけが正しい」と感じたところで、固陋頑迷の中の独善でしかない場合の多々あることが、こうして毎日のように雑文を書き連ねていると自分でも分かってくる。だからと言って今を生きる若者の行動を素直に許容し、妥協し、認めていけるのかと問われるなら、それもまた難しいのは歳を重ねてしまったことの弊害でもあろうか。

 最近のNHKテレビのニュースである。それほど気にして見ていたわけではないが、インドネシアのジャカルタでの芸能を巡るニュースだった。日本で現在もっとも人気があるとされているグループアイドルというか少女歌手集団にAKB48というのがある。このAKB48の海外版ともいえるJKB48なるグループを結成すべく行われた、オーデションの状況を伝えるニュースであった。
 私が持っているAKB48に対する知識は、みんな同じ顔をしている女の子のグループ程度の認識だから(別稿「おんなじ顔」参照)、それこそお粗末そのものに尽きる。そして彼女らのCDを買うと握手会で握手できるチケットがついてくるなどの宣伝文句につられて、一人で数百枚どころか千枚以上ものCDを買った若者がいるとの馬鹿騒ぎには、まさに「今時の若い者は・・・」と嘆きたくなる心境でもある。

 こうした芸能世界の出来事は、いかに人気商売と言っても70歳を超えた私にとっては無縁の世界であり、今朝のニュースだってたまたまテレビに映ったから耳に入っただけで、それも馬耳東風と聞き流していただけのことである。そのニュースはJKB48のオーデションを受ける一人の若い女の子の、短い時間ながら合格するまでを追いかけていた。

 その女の子の審査風景での一こまである。恐らく「どうしてこのオーデションを受けようと思ったのですか」とでも審査員に聞かれのだろう。彼女はこう答えていた。「自分の才能を伸ばし、両親を助けたいからです」。ほんの一瞬の場面である。私は彼女のこの答えを聞いて、どこかショックを受けたのである。今の日本人の若い女の子なら決して発しないだろう一言にどこか耳を通り抜けていかない抵抗感を感じたのである。

 それほど感激するような意味を持つ一言ではない。恐らく自分が育ってきた貧しい家族があって、一方にテレビでもてはやされる華やかな世界がある。オーディションの合格と華やかな世界とはその場で直接に結びつくものではないから、合格と成功とには遠い隔たりがあることだろう。それでもそうした世界での成功は一つには高収入につながる思いであり、合格はその足がかりであることに違いはないだろう。

 高収入だけを目的としたのなら、それは今の日本の若者とそれほど違いはないだろう。金に執着する姿勢を、あまり素直に喜べないのは日本人の悪い癖だと思っているから、私はそうした若者の姿勢を批判しようとは思わない。でも「両親のために金を稼ぎたい」との思いは、今を生きる私たちがどこかへ忘れてきてしまった大切な思いになっているのではないだろうかとふと感じたのである。そうした思いを自らの成功に重ねることに、私は私たちが忘れてしまっているかつての夢のかけらを見たように思ったのである。

 「末は博士か大臣か」、こんな言葉を誰から聞いたともなしに覚えている。多分明治から大正時代にかけての日本の男の子の平均的な夢、それも親も含めた極めて抽象的な夢をあらわす代表的な言葉だったような気がしている。
 そうした背景には、立身出世と言った世俗の思いが秘められているのかも知れない。恐らく「博士」とは「頭がいい」ことの別表現で知識の代表としての地位を示しているのだろう。そしてもう一つの「大臣」には、権力とそれに伴う豊かな生活の裏づけが潜んでいるのだろうと思う。
 そしてそれは明治維新によって士農工商といった世襲的身分制度から開放され、どんな人でも努力すれば報われる可能性があるとのシステムが一気に日本人の心の中に広まったという時代背景を抜きにしては考えられないことなのかも知れない。

 それでも「末は博士か大臣か」には少しお金とは離れた、他者を意識した知識なり権力が潜んでいたと思うのである。「金持ちになりたい」だけの思いとは少し離れた夢だったのではなかったかと思ったのである。もちろんアイドルになりたいことや、サッカー選手になりたいことも一つの夢であることに違いはないだろう。そういった意味では昔の夢も今の夢も、ともに実現の可能性が極めて低い、まさに「夢のような夢」であることに違いはない。

 だがそれにもかかわらずこのインドネシアの少女の夢には、小さいかも知れないけれど私たちがもう失ってしまっている家族に対する無意識の思いみたいな気持ちが潜んでいるように感じたのである。私たちが失ってしまっていると書いたけれど、彼我の違いはそれほど大きいものではないかも知れない。この少女の夢にしたところで、「両親に楽をさせたい」みたいな気持ちがどの程度のウェイトを持つているものかは分からない。単なる面接での「いい振りこき」程度の思いであり、本当はきらびやかな栄光のスポットライトだけが内心のほとんどを占めていたのかも知れない。
 それでもなお私は、仮にスパイス程度の香り付けの一言だったにしろ、この少女の咄嗟の発言からどこか忘れてしまっている今の日本の若者にはない大切な思いの存在に気づかされたのであった。

 そしてもう少し言うなら、今の若者、これからの若者には、「夢のような夢」を抱いて欲しいと思ったのである。テレビをはじめメディアが家庭にも日常生活にも浸透してきている。私たちが幼かった頃は映画俳優はまさにスターであり別人種だった。飯も食わなければトイレにも行かないのがスターだった。そうしたスターがいつの間にかタレントなどと称してお茶の間や隣近所でも見かけるようになってきた。政治家も大会社の社長もそして大学の教授なども、失言や金銭にまみれセクハラの渦中にあるなど向こう三軒両隣のおっさんと何にも違わないことが分かってきた。

 スターも博士も大臣もどんどん地上に堕ちてきているのだから、それにつれて夢もまた地上に近づいてくるのは当たり前なのかも知れない。そのことは分かるのだが、若者の心からいつしか、手の届かないような夢は夢そのものから外してしまうような気風が感じられてならない。「明日稼げること」、それも「自分のために」しか夢として抱くことのできない時代に私たちは自らを追い込んでしまったのだろうか。
 若者の抱く夢の全部が「世のため人のため」になってしまうのもちょっと怖い気ようながするけれど、「自分だけ」から少し離れ親でもいい友人でもいい、なんなら災害にあった人とか体の不自由な人や日本のためなんでもいいけれど、そして場合によってはその中に自分を含めたっていいけれど、どこかに「自分以外の他者を意識した夢」を見る若者も増えて欲しいと思うことしきりである。


                                     2011.11.28    佐々木利夫


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末は博士か大臣か