自宅から約4キロ、歩けば50分、電車なら二駅プラス徒歩で通算約20分、こんなところに私の事務所はある。これまで何回も書いてきたからまたかと思うかも知れないが、たった一人のワンルームの税理士事務所である。毎朝到着と同時にシャワー浴び、パソコンの電源を入れるパターンが日課みたいに続いている。最初の数年間はそれなり仕事をしたけれど、もともとあんまり仕事は好きでないこともあって、この事務所もいつの間にかいわゆる子供の頃に夢見た「秘密の基地」まがいの役割を担うようになってきている。

 1998(平成10)年7月に定年退職してこの事務所を開いてから既に13年が過ぎた。こうして気ままにエッセイなど書きながらたった一人の大統領執務室を気取っていると、そのことがなんとも言えない充実感を与えてくれるようになってくる。土曜日も日曜日も、そして祝日もこの秘密の基地の居心地の良さに誘われるようになり、その居心地の良さはつまるところ居心地のいいように仕組んできた自らの努力によるものでもあることは自明である。机に向かい椅子に座ると、手の届く範囲内に私を楽しませる機能が揃っているのだから、この事務所の存在しない生活など想像もつかない状況にある。

 つい最近、近くの図書館から借りてきた本にこんなのがあった。「『ひきこもり』たい気持ち」(臨床心理士 梶原千遠、角川書店)。図書館はここから歩いて5分ほどのところにあるので、月に数回2〜3冊を気の向くままに借りることにしている。ところで図書館利用の面倒くささの一つに、「借りたら返さなければならない」ことがある。借りたのだから返すのは当たり前のことなのだが、返しに行って手ぶらで帰るのもなんなのでついつい新しく借りることになり、こうした連鎖が昔からこれが図書館利用を億劫にさせている遠因になっている。でも数分で通える近いところにあり、しかもパソコンで本の予約ができ、到着したらメールで知らせるくれる機能までサービスされてしまうと、利用しない手はない。だからこの本に特別な思いを抱いて借り出したのではない。たまたま書架を眺めていてタイトルに引かれて手に取っただけのことである。
 ところが読んでいくうちに、本の内容がどうのこうのと言うのではないけれど、どうも書かれていることが私自身に跳ね返ってくるような気がし出してきたのである。

 なにしろこの事務所は、日常的に私一人である。ときに来客やセールスなどの訪問がないではないけれど、仕事を減らしつつ秘密の基地としての色合いが濃くなってきてからは、時々の仲間との飲み会として居酒屋に変身することなどはあっても、「親しく他人と交わる」みたいな機会は日常生活も含めてぐんと減ってきている。退職するまでは、どちらかというと「他人と話す」ことが仕事だったから、それなりの付き合いもありどんな付き合い方をするのかも含めて人との対話は必要な仕事の裡だった。

 ところが年齢も70を越すようになってくると、そして仕事も減らすようにしてくると、面倒くささもあってそうした他人との接触がずんと減ってくるようになる。もちろん税理士向けパソコンソフトや生命保険や金融商品の勧誘などと言った訪問もあるし、電気設備の点検や配水管のつまり具合の点検なども入れると事務所への訪問者は日常的にはけっこう出てくる。とは言ってもそれらはどちらかと言うと「利害関係のある他人との付き合い」といった状態からはかけ離れた単なる通過儀礼としての付き合いでしかない。そうすると私の日常は、いわゆる「ひきこもり」の状態と非常に酷似しているのではないかと、ふと気づかされたのである。

 「ひきこもり」であるとか「ひきこもり状態」とは、具体的にどんな状況を指すのかあんまり理解していないけれど、学校に行かない(行けない)、職場にも行かない(行けない)で、自室に閉じこもってしまうような現象が一般的だろう。場合によっては親が食事をドアの外に置いておくような状態にまでなるらしいので、そうなればまさに家族との付き合いもない孤立状態にいたる。
 この本の著者も冒頭に「『不登校の子どもが10万人を超えた』ととか、『ひきこもりは社会的な問題だ』とか言われている。外に出られないでいる子どもや大人が数え切れないほどたくさんいるという」と書いているし、新聞テレビでも似たような報道が繰り返されているので、まさに社会的な問題なのだろう。

 「外の世界とのつながりが切れている」ことがひきこもりなのかと言われると、それは必ずしも的確ではないような気がする。私がそうした状況をきちんと捉えているわけではないけれど、多くのひきこもりはなぜかテレビであるとかパソコンを通じたインターネットとの接続状況下にはあるように思えるからである。つまり「外の世界」とは細々どころか密接につながっているように思えるのである。もちろんそうしたつながりを「単なる受け手単独」としての意味に捉えることも可能である。つまり発信することのない単なる受信一方の世界と言う意味である。しかしこれもまたどこか違うような気がする。例えばブログであるとか、フェイスブックやミクシィなどのSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)などを通じて、ひきこもり状態にある若者の多くはある種の情報発信者にもなっているからである。

 まあ分かったような振りをしてしまえば、いわゆる「血の通った交流がない」とでも言えるのかも知れないけれど、だとすれば私自身も含めて多くの「ひきこもりでないと自認している人たち同士の交流」だって、「どこまで血が通った交流になっているか」と問うてみるなら、疑問だらけになってしまうのではないだろうか。
 恐らく「交流」がひきこもり判定のキーワードになっているような気がしているし、そして多分その意味する内容には「心のこもった交流」みたいなことが含まれているような気のしないでもない。だがそうした交流をどこまで、そしてどんな風に捉えていけばいいのかを考え出すと、なんとなく泥沼にはまってしまうような気がしてくる。

 受け手がとりあえず「人」であるろうことに誰もが疑いを抱くことなどないかも知れないが、その相手が仮にペットだったならその間に交流などないと断言してもいいのだろうか。職場の嫌な上司やえこひいきしているかのように感じている学校の先生が相手なら、その相手が人であることだけを理由に「交流している」と呼ぶことに抵抗はないだろうか。夫婦や親子や親戚、友人知人が相手なら常に「人と交流している」と言っていいのだろうか。なんなら少し離れて、模型飛行機の作成だとか記念切手の収集と言った「物体」、そしてパソコンやパソコンに連なっているSNSなどの多くの「情報」が対象なら、それは交流とどう関連づけていけばいいのだろうか。交流には常に他者を必要とするだろうが、その他者は常に人でなければならないのだろうかとの疑問である。そして更に、仮に人に限定したところで、その場合の交流とひきこもりを区別する指標はどこに求めていったらいいのだろうか。


                                「71歳のひきこもり(2)」へ続く。



                                     2011.9.9    佐々木利夫


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