どうしてこんなことを考えついたのかと言うなら、「あぁ、今日は誰とも話をしなかったな」みたいな思いが、退職前の職場時代から私の周辺にはときどき存在していたような気がしていたからである。もちろん物理的に会話のない状態が一日中存在したかと言われればそうではない。職場に出て「おはよう」を交わし、仕事の打ち合わせや指示をする。時に上司に報告をしたり夜は仲間と酒酌み交わし談笑する、そうした交流が皆無であるような日が存在したと言う意味ではない。それでもどこかで悩みでも嘆きでも悪口でも、場合によっては自慢話なども含めて、「己が身の内を晒す」みたいな会話のない日が何度か存在していたような思いが突然湧いてくることがあったのを思い出したからである。

 こうした思いをひきこもりと対比することなどなかったのだが、こうしてひとりの事務所で日がな一日来客もなく場合によっては電話もない日があると、ふと誰とも話をしなかったと感じたかつての記憶と思わず重ねてしまうことがある。テレビを見る、図書館に行く、本を読む、昼飯を作る、食器を洗う、湯を沸かしてコーヒーをドリップする、パソコンに向ってこうして雑文を書く、そのほか音楽を聴いたりインターネットで調べものをするなどして一日は退屈する間もなく夕暮れを迎える。「テレビを見ながら独り言を言う」みたいな器用さは持ち合わせていないので、もしかしたら一言も声を発しないことだってあるかも知れない。

 そうした状態を、もし誰とも交流がないと定義づけることができるなら、私のこうした日常はまさにひきこもり状態にあるような気のしないでもない。ひきこもりの意味をきちんと定義するのは難しいと前回書いたけれど、状況としてのひきこもりはなんとなくイメージできないではない。外出することなく部屋にひとりで沈黙していて、しかも生活などは完全に親に依存しているような、そんなひきこもりのイメージととても類似しているような気がしてくる。つまり「自立できない子ども」と「働けと怒鳴ったりおろおろしている親」、こんな対比がすぐに浮かんでくるからである。

 もちろんそんな状態と私とは、似ている部分もあるけれど似ていない部分だってたくさんある。朝の通勤を外出と呼べるなら、私の外出は登校拒否の「いやいや」状態と比べるならむしろ「いそいそ」と楽しみに満ちている。「今日は何をしよう」みたいな期待を込めて出かけるわけではないけれど、それでも秘密の基地での自分だけの世界へと向う楽しみには捨てがたいものがある。
 自立とは何をいうのか。もしそれを「生活費を自分で稼ぐ」ことを意味するなら、残念ながら今の私は事務所の維持がせいぜいで、家計への寄与はほとんどできていない。だから今の状態を自立と呼べるかと問われるなら、どうも自信をもって答えるだけの自信はない。それでも誰に依存するでもなく暮らしていくことを自立というのなら、女房に家計の管理を任せていることの依存はあるにしても、とりあえずは自立の分野に自分を押し込めることはできるような気がしている。

 仮に自立することを「精神的に自分の足で歩く」みたいな意味に捉えてしまえば、乳児、幼児、未成年、学生などはもちろんのこと、言葉として適切ではないかも知れないけれど、生活保護や身体障害者などの給付、更には過去の勤務や積立からの見返りと言ってしまえばそれまでだが年金や預金などで維持している生活もまた自立ではないことになってしまうのではないだろうか。

 今年の7月、ノルウェーで銃による大量殺人事件が起きた。これまでこんな事件など考えられなかった国での事件に世界中が驚いた。
 「・・・容疑者は現実と異なる社会に住んでいた。ネットを通じて、同じ価値観を共有する人だけと対話していた。移民やイスラム教徒を追い出し、キリスト教徒だけが住む純粋社会を夢見たバーチャル社会の中で『自分だけが正しい』と確信していた」(ノルウェー元首相、トールビョルン・ヤーグラン、2011.9.8、朝日新聞)
 恐らくこの分析は正しいだろう。だがこうした分析は私たちにだって当てはまる。まったく架空のバーチャル社会ではないかも知れないけれど、私たちだって「同じ価値観を共有する人だけと対話していた」現実は同じではないかと思うのである。だとすれば私たちの多くだって、ノルウェーのとんでもないテロリストと同類であり、自宅にひきこもっている青年とも同類である。

 交流だの共感だのと口では知った風なことをほざいてはいるけれど、災害や戦争や飢餓による何千人、何万人もの死者の報道に、私たちはどこまで共感しているだろうか。例えば身近に税理士仲間の訃報を会のホームページで知ったとしても、それほどの付き合いではなかったからと情報だけが通過してしまうことはどうだ。電車のミニスカート姿にはちらりと視線を流すけれど、子どもが騒いでも高校生が足を広げて座席を占有していても注意することはないのはどうだ。
 これらは私だけのことであって決してあなたのことではないかも知れない。でもそうした無感動とも無関心ともいえる流れが、少しずつ現代を侵食していっているような気がしてならない。それはまさに自分の殻に閉じこもりひきこもっている姿である。見えても見えない、聞こえても聞こえない、届いても心には響かせない、そんな時代に私たちは生きている、生きようとしているのだろうか。

 もしかしたら私たちは「ひきこもらないと生きていけない時代」に入り込んでしまっているのかも知れない。前回で引用した「『ひきこもり』たい気持ち」の著者は「ひきこもりたくなる気持ちは私の中にも存在する要素だと言ったが、誰の中にもあるのではないだろうか」と書き(同書P12)、「ひきこもって何が悪い。人と付き合うばかりが能ではない」とも逆説的ではあるが書いていた(同書P235)。

 動くから傷つくのか、傷つくのが嫌だから動かないのか、「傷つかないこと」が傷を癒していくことになるのか、「動かないこと」の中に安らぎみたいなものが生まれ、「平穏な私」の存続が許可されるのか。ひきこもりにはどこか自己防衛的な要素が強く感じられるけれど、ひきこもりの増加は、情報過多の世の中では「耳ふさいで過ごさなければこの身が持たない」と感じる人が増えてきている事実を示しているのかも知れない。

 そこまで私自身が追い込まれているとは感じていないけれど、このひとりの事務所を「秘密の基地」と位置づけていることそのものが、一つのひきこもりを示す兆候になっているのではないかと密かに自問しているのである。そしてそして、そのひきこもりは何とすばらしい甘さを伝えてくれるのだろうかと、そのしたたりをしみじみ味わっているのでもある。この閉鎖空間はまさに「ひきこもって何が悪い」の宇宙であり、「人と付き合うばかりが能ではないだろう」の辺境でもある。そしてそれはまさに「71歳のひきこもり」の姿そのものである。


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                                     2011.9.15    佐々木利夫


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