日本人に飢えがなくなりそれが逆に日本人を駄目にしているのではないかと書いたのは、年を跨いでしまったから昨年のことになるけれどつい前回の発表作品である(別稿「飢えのない時代」参照)。発表してクリスマスが終って年末商戦がたけなわになり、例年通りの紅白歌合戦、除夜の鐘、そしてお笑い番組満載の正月テレビが氾濫し始めた。不況だの雇用不安だの失業率の高さなどの話題が連続し、加えて政治も同じように混迷を続けているにもかかわらず、年末を海外で過ごす旅行者は相変わらず多く、デパートなどのおせち料理に群がる主婦なども引きもきらない。確かにホームレスの増加や失業者の話題など日本の不況を伝える映像にも事欠かないけれど、むしろそうした映像はテレビ局が貧困者や身寄りのない者をわざわざ探し出して視聴率稼ぎに使って映像化しているかのように、サラリーマンや主婦やギャルたちの姿からは不景気の悲愴感がまるで伝わってこない。

 恐らく現実に貧困は世の中に広まっているのだろうけれど、そうした事実が私たちに実感として伝わってこないのはどうしたことなのだろうか。それはもしかしたら、世の中が大多数の豊かな階級と僅かな貧困層に二極分化していて、本物の世の中は報道されているほど不景気ではないのかも知れないと、ふと錯覚することがある。そしてその二極分化の現実に貧困層からかろうじて免れている私たちがどこか鈍感になっているからなのかも知れないとも・・・。

 人は他者に対していつの間にか鈍感になってきているようだ。隣近所や向こう三軒両隣のご近所づきあいははるか遠い時代の物語の世界でしかなく、その代わりに騒音だのペットの臭いだのといった紛争だけが目立つようになってきている。それは核家族化していく現代の必然なのかも知れないけれど、親子三代が一つ屋根の下に同居するような家族構成が、住宅の小型化やマンションにおける個室化などによって遠い昔物語になっていく現実と無縁ではないのかも知れない。
 しかも結婚しないことが現代生活の中に目に見えるような形で浸透してきて、「家族」とか「身寄り」と言った観念そのものが人々の間に希薄化しつつある。昨年30歳になった昭和54年生まれの女性の53.9%が子どもを産んでいないとのニュースが流れていた(2010.12.30、NHK朝7時のニュース)。そうした親族間の希薄化はそのまま隣近所の希薄化となり、他者への無関心さへとつながっていくのかも知れない。

 貧困はそのことだけで孤立化を意味する。貧困にある者は自動的に他者との接触が少なくなり、接触の希薄化の中で更に孤立へと自らを囲い込んでいくことになるだろう。家族もなく仕事仲間もない生活の中での貧困は、孤立化をますます増幅させるだけの役目しか果たさない。
 孤独死などの報道を見ると、そうした人たちの多くが引きこもりにも似た生活をしている。乱雑に散らかったままのアパートの小部屋、かろうじてテレビだけが外界とつながっているように見えるだけで訪れる人もいない。カップめんなどの空の容器の散らばりは、そのまま買い物などのつながりすら少ないことを意味している。貧困はつながりたいとする思いだけではなく、他者へのつながりそのものをも切断してしまう方向へと機能するのである。

 「他者との付き合い」とは本来双方向の意思の疎通を意味する言葉であろう。つながりの切断には色々なケースがあるとは思うけれど、貧困もまた貧困者から他者への意思を疎外する。だとすれば意思の疎通が社会にとって望まれると考えるならば、そのためには貧困者へ向けた発信こそが要求されるのではないだろうか。
 ところがその発信すべき者そのものが自ら以外への関心を失いつつある。それはまさに普通の人から貧困者への一方通行しかない片道切符の通路を自ら遮断してしまうことを意味している。かくして貧困者は貧困であることだけで完全なる孤立の中に閉じ込められることになるのである。

 恐らくそうした貧困者に対して投げかけられる言葉の一つに「自立」があるだろう。そしてその自立の中には「自律」の意味も含まれていることだろう。そこに込められたメッセージは、「自己責任」を背景にした貧者以外の者からの非情である。
 例えばアパートの一室で餓死した39歳の男性がいる(2010.12.29、朝日新聞、特集記事「孤族の国」から)。兄弟親戚も、友人も、近隣も、そして生活保護の申請に訪れた窓口の担当者も、こぞって「健康なのだから、働く気にさえなるなら自分ひとりの生活くらいは維持できるはずだ」との思いを口にする。そうした思いの裏側には、「そうしなかったことへの自己責任」がある。誰も口には出さないけれど、「自分の身は自分で守る。それが大人なのだ」とか「そうした人生を俺たちは生き抜いてきたのだ」との思いがあり、そうした「当たり前の努力をしなかった者の敗残は自業自得の結果」だと考えている。

 そうした思いを誤りだとは言うまい。そんな甘えが通じるほど現実が柔でないことも理解できないではない。自立はまさに自律でもあるのだし、多くの人たちがそうした中で自らの人生を処してきたのだから。
 だがそうできなかった人もまた存在することを私たちは考えようとしない。それはそうした人たちの存在を否定しているのではない。また存在を認めて自立できない生き様を非難しているのでもないように思う。恐らくそこにあるのは「無関心」である。「私とは関係がない」とする閉鎖的なこころである。

 「お節介」と言う語は既に死語と化しているかも知れない。自分のことに一生懸命で、他人のことなど構ってやる余裕などないのが現実かも知れない。でも本当にそうだろうか。どこまでを他者を「自分のこと」として理解していくのかは難しい判断を迫ることになるとは思うけれど、「他人のことを構ってなどいられない」ほどにも多くの人たちが自分の生活に切羽詰っているとはどうしても思えない。

 「お節介の復活」を提唱するつもりはないけれど、心のどこかに「他人にお節介をしてみよう」みたいな気持ちを持ってもいいのではないだろうか。そうした思いが少しずつ広がっていくなら、恐らく孤立の中で行き先を探しあぐねている人たちからも「助けてくれ」の言葉が出てくるのではないかと思うのである。それは僅かにもしろ現代社会がどこかに置き忘れてきた「双方向の意思疎通」への足がかりになるように思える。
 「助けてくれ」の言いやすい世の中、そしてそれを許容する世の中の実現が、私たちに望まれているのではないだろうか。これは忘年会に酔いしれる人たちへのメッセージではない。他者に無関心になっていることに気づこうともしていない私自身に対する警鐘でもある。



                                     2011.1.1    佐々木利夫


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貧困と孤立