先週発表した「老税理士のすさび」でも書いたが、金のないことはそれほど不自由ではない。もちろん「丸っきりない」のは論外だし、老境に入ったことが拍車をかけているのかも知れないけれど、「金が敵の世の中」を少し斜交いに眺めることができるようになってきているようだ。そんなときに読んだ本の中にこんな一節を見つけ、さもありなんと感じたのであった。

 「二十歳の僕は、何しろ金がなかった。
  二十歳の友達も、やっぱり金がなかった。だけど一緒にいると、空腹も忘れるほど楽しかった。」

  (原田宗典「じぶん素描集」P170、講談社)


 もちろんここでの「金がなかった」は、「空腹を忘れる」との対比で語られているように、まさにその程度の金のなさでしかない。つまり「腹が減った」の延長にあって、場合によっては仲間と一緒にいることで忘れることのできる程度の腹の減り具合であるということである。だからそれは「飢え」とか「飢餓」と言ったレベルとはまるで異質なものだったであろうことは容易に想像がつく。

 それでも私は、この時代の空腹には一つの「負けん気」みたいなものが含まれていたように思う。それはもしかしたら空腹が国民の多くに共通した意識として存在していたからなのかも知れない。もちろんどんな時代にだって、飽食と空腹とはそれを階級と呼ぶか貧富の差と呼ぶかは別として、対立しつつ同居していただろうことを否定はできない。富の再分配が為政者や権力者が口で唱え頭で思うほど簡単には成し遂げられないことは、世の現実や歴史が示している通りである。

 現在、北アフリカや中東で民衆によるデモが燎原の火のように広がりつつある。昨年12月の中旬にチュニジアで起きた一青年の焼身自殺を発端とした政権打倒の抵抗運動は、モーリタリニア、モロッコ、アルジェリア、リビア、エジプト、ジブチなどの北アフリカ諸国に加え、隣接するイエメン、サウジアラビア、ヨルダン、イラク、クエート、バーレーン、イランなどなど中東諸国のほとんどを巻き込んで、独裁者政治や王政の交代を求める反乱へと拡大しつつある。その背景には独裁による富の偏りがあると断言してもいいように思う。つまりは大衆の貧困である。貧困とはなにか、それは飢えと同義である。イコールである。
 そうした国々の貧困がどの程度のものなのか私には実感がない。一日1ドルとか2ドルで生活する家族が大多数だと言われても、その貧しさを想像はできても実感には届かない。

 ただ先に引用した原田宗典の言葉にしろ、これらの国々の政治への抵抗にしろ、空腹や貧しさには今を変えようとする力が根源的に含まれているように思う。そうした力が今の日本の若者の心から、いつしか失われてしまったように感じられてならない。

 今の若者が、子供時代を高度成長期の下でその身を安定した保護に委ねてきたからなのか、それとも空腹などゲームや映画などによる架空の出来事でしかないと信じているからなのだろうか。そして私が疑問に感じるのは、空腹が現実になったときそれでも保護されることに寄りかかり自らの力を試そうとしなくなっているように思えることである。

 確かに現在は不況の只中にある。つい先日のNHKのクローズアップ現代は、結婚できない若者の背景に年収400万円以下の者が75%にも及ぶことを放送していた。また別の特集では引きこもりなどで働かない若者が70万人にも及ぶと伝えていた。そしてそうした背景、つまり低収入や引きこもりでも生活が維持できている背景には親の存在が深く関わっているという。

 恐らく親だけではないだろう。もしかしたら生活保護や就労支援などのシステムも同じような意味を持たせられているのかも知れない。それはつまるところ今の若者は、自らの努力なしに空腹を満腹に変えることができる呪文の存在を知り、それをいつでも唱えることができることを知ったのかも知れない。

 もちろん現代の経済状況が不景気を背景に就職難であるとか、一度の失敗が再チャレンジを阻害しているなど、社会的・制度的・構造的な解決が望まれることに否やはない。ただそうは言っても、一番の源泉となるべきは若者自身が食うことに挑戦する力を持つことではないかと思うのである。
 空腹にも力があるのではないかと言った背景には、人は食うことに対して自分自身で立ち向かう心を持っていると思ったからである。両親の保護の下で、家賃も食費も、なんならインターネットの接続料や通販での買い物代金の支払いまでもが保証されている若者に、そんな力を求めても無駄なのであろうか。

 そうした力の向け方のすべてが正しかったとは思わないけれど、炭鉱マンの子供として、また自身の問題として経験した労働争議への意識、全学連などに代表されるような学生運動の高まりなどなど、無茶は無茶なりに空腹や貧しさは一つの力を発揮したと思うのである。そうした無茶さ加減が今の若者からはどうしても感じられないのはどうしたことなのだろうか。どこかで諦めが先に立っていて、「誰かがなんとかしてくれる」ことだけに頼っているような気配がとても強く感じられてないらない。そして苛立ちを込めて私は思うのである。日本はこれからどこへ行こうとしているのだろうかと・・・。



                                     2011.2.25    佐々木利夫


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