法律の制定は国会の専権事項である(憲法41条・国会は国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である)。そして成立した法律は憲法ならば廃止されるまで、憲法以外の法律や条例などであれば廃止されるか憲法違反が確定するまでは、たとえその法律に反対する者や成立にまるで無関係だった未成年や外国人など選挙権を持たなかった者にもその規定が拘束力を持つことの分からないではない。それは国が法治国家として存立していくための必須の要件だと思うからである。

 それにもかかわらず私は自分の憲法観が少し揺らいできていると前段(1)で書いた。私はこのエッセイのタイトルを「憲法と私たち」とした。「私たち」としたのは、このような思いは単に私一人の考えではないような気がしてきたからである。憲法が成立した日を、制定日とするか施行日とするかは議論のあるところかも知れないが、とにかく記念日とされている1947(昭和22)年5月3日にしよう。とするならその制定は今から64年前のことになる。つまり憲法成立時に生まれた赤ん坊ですら現在ではすでに64歳になっていることを意味している。選挙権が学問上の権利かどうかは議論のあるところだが、仮に20歳を基準とするとなら憲法成立の国会決議をした国会議員を選出した国民は、今では多くが亡くなっているだろうけれど残る者も全員が84歳以上であることを意味する。
 そして憲法はその改正手続きが、発議そのものが国会議員総数の3分の2以上、賛否は国民投票の過半数と定められていることから(憲法96条)、これまで一度も賛否はおろか改正も含めて国民の審査を受けていないのである。

 つまり憲法は成立した当時の姿そのまま、生まれた姿そのままの形で現在まで続いているのである。だとするなら、日本の正確な年齢別の人口構成を私は知らないが、現在生き残っている84歳以上の者しか憲法に直接関わった者は残っていないということである。法治国家とは成立した法律には賛否を問わず従わなければならないものなのだと私は書いたし、そう思ってもいる。でも、極端に言ってしまえば、成立にまるで関わりのない国民が全人口の80%も90%も占めているにも関わらず、そしてその内容について国民がその妥当性を一度も検証したことのない法律が、それでもなお法律として存続していることに果たしてどこまで妥当するのだろうかと、ふと疑問に思ったのである。

 恐らく公務員を除くほとんどの国民が、憲法を守ることを宣誓することや自らに検証することなど生まれてこのかた一度もないままに生活していることだろう。憲法遵守を宣誓した公務員にしたところでそれは採用時の一枚の紙切れに過ぎず(だからと言ってその宣誓が無効になるとは思わない)、その後その宣誓書が何らかの効果を持つ文書または契約書として記名した公務員を具体的に拘束することなど恐らくないだろう。仮に憲法に違反する行為によって懲戒などの処分を受けることがあったとしても、それは宣誓書に違反したからではなく、公務員法や人事院規則や他の刑罰法規などに抵触したことによる処分だろうからである。つまり私たちは、事実上憲法とは関わりのないレベルで日常生活を過ごしているのである。

 もちろんそうした日常においても、私たちを取り巻く法律やシステムは「憲法に違反していない」という前提で成立しているから、間接的にはその日常は憲法の庇護下、適用下にあるといっていいかも知れない。だからと言って、そんな日常の故をもって私たちが憲法を意識し承認しているとはとても言えないのではないだろうか。

 世界に冠たる長寿国日本だから、84歳を超える老人はまだまだ多数生存していることだろう。だからそういう人たちを無視または軽視するような言い方はどうかと思うけれど、誤解を承知で言うなら現在の日本を維持しているのは84歳を超えている老人層よりも、もっと若い人たちだと言ってもいいだろう。憲法には多くの基本的人権が定められているから、84歳を超える老人にとっても介護や年金や医療などなど、福祉や生存権などを巡る憲法規定と無関係とは言えない。それでも憲法が宣言している戦争放棄であるとか基本的人権などの多くは働き盛りの人々やこれからを担う若者にこそ向けられるべきではないかと思う。

 ところがそうした憲法が、実は84歳以下の国民とはまるで無関係なレベルで決定された経緯を持つのである。自らのまるで与り知らぬところで決定された憲法に、どこまで人は我が身を委ねることができるのだろうか。そしてその「無関係なレベル」とは、まさに決定的な無関係、つまりノータッチの無関係なのである。
 追完あるいは追認という考え方がある。誤解や不知の契約や不備な事内容などによる約束などであっても、自己決定できる資格を得た後にその事実を改めて承認するなら、そうした誤解や不知を超えてその約束が有効になることがある。だから私たちが何らかの機会に憲法を承認したのなら、それは私たちが直接認めた憲法になる。そうしてこそ私たち自身が定めた憲法と同じになる。

 だが現行憲法はそうした追認のような場面を一度も経験していない。法律そのものが自らの改正手続きを非常に困難にしたことで、この憲法と名乗る法律は国民が何の栄養を与えていないにもかかわらず、自らの持っている力だけで存続することになってしまっているからである。そうした追認などの洗礼を受けていないこと自体が、逆説的に承認されたことの証拠だというのかも知れない。つまり、反対がなかったこと自体が賛成の意思表示だとする考えである。そうした逆説の意味がまるで分からないではない。反対意見があるなら反対である旨を表明して行動を起こす(法律改正を掲げた立候補、もしくはそうした意見を持つ立候補者への投票など)べきであり、そうした行動をとらなかったことはそのまま現状を承認しているのだと言う意見も、あながち理解できないではない。

 でも私にはそんな思いはどこか違うような気がしてならないのである。憲法改正手続きの困難さは、憲法そのものに無関心さからも栄養を吸い取って生き続ける執念を与えてしまったように思えるからである。ことは憲法である。私には、どこかで国民がその内容を承認し、慈しんでこその憲法ではないかと思えてならないのである。国民の大多数の無関心を養分として存続していくような憲法というのは、どこか身勝手で変だと思うのである。
 追完、追認、関心、修正、語らい・・・、何でもいい。具体的に憲法を認める(または反対する)ような、憲法そのものの存在を認識していくような場面や過程があってこその私たちの憲法ではないかと思うのである。そしてそれが憲法を育てていくことになるのではないかとも思うのである。放ったらかしたままでも憲法は勝手に生き延びていくかも知れないけれど、私たちが関わる中で育てていく憲法こそがきちんとした日本の指針になっていくのではないだろうか、そんな思いのした今年の5月3日であった。

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                                     2011.5.9    佐々木利夫


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