卒業式などで日の丸への起立や君が代斉唱を義務付けた教員委員会の通達に従わなかった行為が懲戒処分に当たるかどうかを問われた都立高校の教職員に対する控訴審判決が2011.3.10に東京高裁であった。一審は懲戒処分を適法と判断したが、控訴審は通達そのものは適法としながらも「懲戒処分まで課すのは社会通念上懲戒権の乱用ににあたる」として処分を取り消した。こうした憲法にかかる提訴は地裁、高裁で決着のつくことはなく、敗訴した側が最高裁へ上告することになるケースが多い。
そうして早速最高裁に判断を求めようとする教育委員会(つまり東京都)の思惑に対して「
・・・この判決は都の教育現場にさした一条の光であると確信する。都教委は上告を断念すべきである」(3.14、朝日新聞、声「都教委は上告を断念すべきだ」、元高校教員、61歳男性)との意見が載せられた。一般的に控訴や上告の断念を求める敗訴者からの要求に対しては、すでに数年前にその理不尽性をここへ書いたことがある(別項「
控訴断念要求」参照)。まあ言ってみればこうした要求は敗訴者が国などの公共団体である場合には許されず、国民である場合に限られているなど片手落ちな要求であることを指摘するにとどめ、これ以上触れることはすまい。
私がここで取り上げたのは、上記の投稿者もその文中で「
・・・私(も)・・・処分を受けた一人である。・・・都教委による通達と命令は、教育現場の活力を奪うものである・・・」とあったこと、そして「
私は・・・卒業式に臨んで・・・国歌斉唱で起立を求められたが着席したままで・・・、訓告処分を受けたがいったんは(訓告処分書)を受け取るのを拒みました。・・・(この)訓告処分書はいまも大切に保管しています。なぜなら、憲法を守ろうとした教員の証しであり、誇りだからです」(2011.3.10、朝日新聞、声「君が代で訓告は教員の誇り」、66歳男性)との投稿が立て続けに載ったからであった。
日本は法治国家である。そして公務員の行動規範は法の遵守にあるはずである。それは採用に当たって必ず求められる「日本国憲法に従う」との誓約書からも明らかである。もちろん裁判所に違憲立法審査権が存在していることは、それこそ憲法で規定されている事実である(憲法81条)。このことは逆に「憲法に違反した法令や条約などが存在する」ことを意味しているともいえよう。。
実はある規範が憲法に違反していると人が感じたとき、その規範にそのまま従うべきかどうかはかなり難しい問題である。「明らかに憲法に違反している」にもかかわらずそうした規定が存しているとき、人は従うべきかどうかは悩むことだろう。「悪法も法なり」として従うか、それとも「憲法に違反してるいるのだから従う必要はなく、憲法の真意にこそ従うべきである」かの判断を迫られるからである。
でも私はその答えを憲法は81条で、その判断は裁判所のみが行うと定めたと思うのである。もちろん立法や条例は国会なり地方議会の権限であるから、憲法違反だと判断するならそうした規定を自ら廃止、改正することにやぶさかではないし、むしろそのようにすべきである。しかし、そうでない限り(つまり裁判所の最終判断が出ていない限り)、少なくともその規定は適法(憲法に適合している)の推定を受けると思うのである。
なぜなら仮に特定の個人や団体が、ある規定が憲法に違反すると称してそれに従わないことを認めてしまうなら、そしてその行為が妥当であるとして憲法上も承認されるとするなら、法治国家としての日本の存在は根底から否定されてしまうと思うからである。
私は「ある規定を憲法違反ではないか」と考えることまでも否定するものではない。また、そう感じたことを根拠として、当該規定などの改廃を求める運動を起こすことも否定はしない。通常は選挙を通して自分の意見に合致する人物を選択して改廃への道を選ぶのが多いだろうけれど、場合によっては自ら国会議員となって法律の改廃などに尽力することだってできるだろう。それでも私はその規定が廃止されたり改正されるまでは適法なのだと思うのである。そしてそれが規定として存在している以上、私たちはそれを遵守しなければならないと思うのである。それはもちろん、その遵守が己の意思に反することであったとしてもである。
君が代や日の丸に対して、教育委員会の定めたルールが、憲法に定めた「思想・良心の自由」(19条)に反すると考えることはまさに19条そのものの内容である。だがそれを違反する行為の実行にまで及ぼすことは間違いだと思うのである。その間違いを犯したのだとすれば、その行為に対して教育委員会が懲戒処分を行うのもまた当然ではないかと思う。
だからと言って自らの信条に反してその処分を甘受すべきだとは思わない。当該処分は憲法に違反するとの主張を法廷で争うことは当然の権利であると思うからである。しかしながら法治国家において法に反した行為を行い、そのことを「誇りに思う」と述べるなどは、あたかもテロリストが爆弾を仕掛けておきながらジハード(聖戦)を唱えるのと同じような考えではないかと私は思う。
ましてや憲法が「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である」(81条)と定めているにもかかわらず、「上告を断念すべきだ」などとうそぶくことは、憲法違反の行為を相手に要求しつつ自らは遵守する意思を真正面から否定しているのと同じように思えるのである。それはまさに偏った主張であり、両者の平衡するバランスから逸脱した主張は、どちらかというと独裁者の理論でしかない、・・・と私は思うのである。どちらの意見を最高裁が支持するにしても、両者が納得するまで主張を尽くすべく三審制を定めたのはまさに憲法の理念だと思うからである。
だから私は、こんな思いを「私の誇りである」などとうそぶくのは、まさに身勝手な思い上がりではないかと思うである。
2011.4.8 佐々木利夫
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