福島県産のコメの放射能値がすべて基準値以下だとして安全宣言がなされていたにもかかわらず、検査をすり抜けていたことが立て続けに見つかっている。発見された経緯は、自分で食べたり親戚などに配るため念のために検査して欲しいと依頼したことがきっかけだったらしい。当事者も回りの人たちも、そして国民全部が放射能に振り回される状態については先週も「
鈍磨していく風評の中味」の中で書いたばかりだから、そのことを繰り返そうとは思わない。このすり抜けの報道から違和感を抱いたのは、すり抜けという検査体制の粗雑さはともかくとして、行政が放ったいわゆる言い訳の中味からであった。
安全宣言を出したのは福島県知事でありその宣言が崩れたのだから、行政としては当然に何らかの言い訳をしなければならない必要に迫られたことだろう。とは言え「サンプル検査なのだから、検査のすり抜けは当然起き得ることだ」と開き直ることは、意味としては正論なのかも知れないけれど放射能に敏感になっている国民の現状からしてとても言えたものではない。そこで出た言葉が「一般市場には流通していません」だった。
私はこの言葉が言葉としてもまた事実としても嘘だと言いたいのではない。またその内容が疑わしいと思っているわけでもない。ただ立て続けに発見された数件の、それも異なる地域での基準値を超えたとされるコメの全部について、この「流通していません」とのメッセージが添えられたことにどこか引っかかるものがあったのである。
行政としては安全宣言を出したにもかかわらず、それに反する結果が出たことに直ちに対処する必要に迫られたのであろう。そしてその対応の一つとしてこうした形での安全宣言になったことは理解できる。「流通している福島県産米」という前提を置く限り、「流通していません」のメッセージは放射能の検出された米が消費者に出回っていないことの宣言になるからである。ただその報道から私は、出回っていないコメがこんなにも存在しているとの事実に気づかされたのである。
もちろんそう判断するだけのデータがこの発表で得られたとは言えない。福島県のほんの一部である福島市大波地区、伊達市、二本松市での数件の出来事をもとに、全国に流通している福島県産のコメの全部にまで拡大判断するのは誤りになるかも知れないからである。
それでも立て続けに発生した基準値超えのコメのそのいずれもが流通していませんと発表されたことは、「流通していないコメ」というのが世の中にはたくさんあるのではないかとの疑念を私に抱かせたのである。農家には専業農家と兼業農家の区別のあることくらいは知っている。しかも農業の範囲はコメだけでなく野菜や小麦や馬鈴薯などあらゆる農産物や畜産などにまで及んでいるのだから、農家に占めるコメの専業農家の割合はずっとずっと少なくなるだろうことも理解できる。
わたしは「流通していない」との報道が、例えば野菜であるとか小麦などの話だったのなら、ここまでの違和感を抱くようなことはなかったのではないかと思う。しかしコメは、どちらかというなら日本の農業の代表としての地位にあると思っていたからである。それは質量ともの代表という意味ではないかも知れない。でも政府も農協もコメを前面に出すことで、日本の農政そのものを論じてきたのではないだろうか。コメの需要は減少しつつあり、パンや麺類に押され気味のようである。そういった事実としての需給バランスを問題としたいのではない。「日本の農業をどうするか」などのテーマで論じられるとき、一番分かりやすい例としてコメがあげられてきたのではなかっただろうかということをいいたいのである。そしてたとえそれが抽象的にしろ「コメを守ること」の中に、日本の農業の位置づけを押し込めてきたのではなかっただろうか。
コメと日本の農業とはあまりにも一体化されている。され過ぎていると言っていいかも知れない。「日本人が第二次大戦での戦中戦後の食糧危機を潜り抜けられたのは誰のおかげだ」みたいな歴史的観念論から、「食料自給率の低下は日本の危機だ」みたいな将来論まで加えて、農業は誰のためにあるのかとの日本人論にいたるまでコメは日本そのものを意味していた。そしてそうしたコメの位置づけはまさに日本の農業政策そのものを決定していったともいえると思う。
そして最近問題となったTPP(環太平洋パートナーシップ協定、一種の多国間での関税撤廃協定)でも、我が国がこの協定に加わることで日本の農業は全滅するとの反対意見が農業関係者から主張され、その主張の裏づけたる農業の背景もまたコメであった。問答無用の反対論には素直についていけないけれど、それでも関係者が危惧している思いが理解できないではない。
その日本の農業政策の基本ともされているようなコメが、実は部分的にではあるかも知れないけれど国民に流通していないことが分かったのである。もちろん流通していないとは、例えばスーパーなどを通じて私たち消費者に届いていないことでしかない。自家用米として自分の家で食べたり、親戚や友人などに配られることまで否定するものではないし、それもまた広い意味での流通であることに異論はない。
しかし私たちがコメを日本の農業の基本に置くことで様々な政策を決定してきたのは、作られたコメが国民たる私たちの口にランダムに入ることを前提としてきたのではないだろうか。それは価格にしろ、農薬などの汚染にしろ、流通を国民共通の問題として捉えてきたからなのではないだろうか。そのために、減反補償にしろ農地転用や農地改良や個別所得補償なども含めたすさまじいまでの税金の投下を承認してきたのだと思う。
そうした思いの一角が、この「流通していません」との一言で崩れたように感じたのである。私たちがこれだけ税金を投じて守ってきた農業のイメージが、実はどこかで穴が空いていたのだと知ったのである。「流通していないコメ」のウエイトはもしかしたら無視できるほどにも小さいものであり、今度の汚染米の発生はその無視の範囲内の更に小さな結果だったのかも知れない。そこのところのデータを私は持っていないから反論はできないけれど、それでもこの狭い地域での数回に亘って発生した汚染米について、そのいずれもが「流通していなかった」と発表されたことに、私は今まで抱いてきた政府のとってきた農業政策への不信が一層募ることになったのである。もしかしたら私たちは「流通していないコメ」の存在を隠されたまま、あたかもコメを守ることが日本の農業を守ることであり、強いては日本を守ることだと一方的に信じ込まされてきたのではないだろうか。
2011.12.16
佐々木利夫
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