今年も新聞週間と名づけられた記念日が過ぎ、各紙ともそれぞれに自戒を込めた取材や報道の仕方についての行事などが行われたようである。そんな行事の一環として朝日新聞は、今年3.11の東日本大震災及びこれに関連して発生した福島第一原発事故に関する報道へ取り組みの経過などについて特集を組んでいた(2011.10.15朝刊)。
 自らの報道を自らの力で検証しようとする姿勢はメディアとしてとても必要なことだと思ったし、同時にまた事実の確認と推認のはざまで苦労している新聞社内部の姿勢にもまた共感を覚えるものがあった。

 だがその特集記事の中にどうにも納得できない数行があり、その数行に対する反省や反論なども含めた意見らしき記述が記事の中で一つも見受けられなかったことに、どこか気になるものが残った。気になった数行とは次のような記述である。

 「・・・新聞は同じ記事が2度載らないよう、重複を防ぐのが紙面作りの大原則だ。あえて目をつぶったのは、『事態の深刻さと、読者のことを考えたからこそ』と柏木(朝日新聞編集センターデスク、記事の扱いや見出しを決めるポストだと解説されていた)は言う

 発言者はその記事の前段で「日々、変る状況を読者にわかりやすく伝えるため、必要なことは何度でも丁寧に載せようと心がけた」と述べているにもかかわらず、具体的な記事の報道に関しては「事態の深刻さと読者のことを考えてあえて目をつぶった」と言い放ったのである。
 私はこの発言にどうしようもない違和感を抱かされ、むしろ間違っているのではないかとの憤りさえ感じてしまったのである。

 「あえて目をつぶった」のがどんな内容の記事だったのかについて、私が読んだ限り紙面の中から探し出すことはできなかった。報道なのだから多くの記者による様々な取材が前提として存在していることだろうし、そうして集められた材料はまさに玉石混交でもあるだろう。だからそうした雑多な情報の中から選び、捨て、検証とチェックを重ねつつ読者に提供していくことに何の疑念もない。そしてそうした権限を仮に特定のポストたる個人に委ねることにだって、特別否定しようとは思わない。もちろん特定の個人による独断での判断を認めるわけではない。組織としてそうした独断が起きないような内部けん制システムが確立されているとの信頼が前提になるであろうけれど・・・。

 本件でも、ある事実の確認ができなかったとか、相反する見解があって両論併記か一方に確定するだけの根拠が得られなかったなどで事実や判断についての確信が持てなかったと言うのなら、その留保の姿勢が分からないでもない。いやそんな場合であったとしても、仮に疑問符をつけてでも発表しなければならないときだってあるのではないだろうかと私は思ったのである。
 そして少なくともそうした「発表しなければならないとき」の要素に、今回のような「事態の深刻さ」は決して外してはならないのではないだろうかと私は確信しているのである。どんなに事態が深刻でも、「読者のことを考えてあえて目をつぶる」ようなことなど、報道の姿勢として決して許されるものではないと思うからである。

 こうした報道による恣意性がどの程度現実に存在しているのかどうか私は知らない。かつての戦争における大本営発表のような事態だって、戦後数十年を経てから作成された様々な検証番組を見てはじめて知ることができたからである。そもそも意図的に「目をつぶった」事実は、受けとる側の国民はまるで知りようがないのが現実なのではないだろうか。
 もちろんかつてはそうした背景に権力による言論の統制や弾圧などが存在していたかも知れないことを否定するつもりはない。そんな現実に「ペンは剣よりも強し」などと言ってメディアを持ち上げようとも思わない。また、そうした圧制に対してメディアが、言論の正義を標榜してどこまで命がけでぶつかっていけるかも、観念論はともかくとても難しいだろうことを否定しようとも思わない。

 でもメディア自らが「国民がパニックを起こしたら困るから、この情報は秘密にする」みたいな思いを記事の中で標榜するようなことが許されていいのだろうか。「国民がパニックを起こすと思われるほど」の内容ならば、まさに国民にとって重大な事実であることを示している。「だから報道しなかったのだ」とメディアは言うかも知れない。そうした姿勢を私たちは許していいのだろうか。
 取材に当たってメディアがくどいほどにも繰り返す言葉に「国民には知る権利がある」との常套句がある。その言葉は時に猥褻文書の取締りであるとか、未成年者の犯罪の氏名公表などにいたるまで、あたかも水戸黄門の印籠、神格化された呪文でもあるかのように繰り返されている。そのメディアが、「国民に知らせない」ことを自らの権限で承認しようとしているのである。これがメディアの傲慢、そしてメディアの自殺でなくてなんだと言うのだろうか。

 そうした傲慢が時の権力に対する迎合から来ているとは思わない。ただ、「国民がパニックを起こすから公表しない」との発想は、少なくとも権力者が権力に溺れて自らの思うように国民をコントロールしようとしている思いと、ほとんど共通しているように私には思えてならない。そして今週別稿で述べたこんなテーマ(別稿「除染と水の行方」参照)も、もしかしたらメディアが国民をコントロールしようとしている危うさの一つの表われなのかも知れないとふと感じてしまったのである。

 今の時代は、政府にも専門家にも有識者にも信頼が置けず、インターネットの世界もまたあることないことが氾濫している。そうした中で、メディアすらも国民に向けた情報を自らの意思でコントロールしているのだとしたら、私たちは何を頼りにしたらいいのだろうか。たとえそれが「国民のため」との美名に彩られていようともコントロールされた情報の下で、国民はあらゆる判断基準から疎外された傀儡にされてしまうことになる。仮に私たちがパニックを起こすことがあり、そのあたふたする姿は見るに耐えないと言われてしまう醜態になろうとも、それはそれで国民の一つの選択肢ではないかとさえ思う。「信頼することの危機」、「信頼してはいけないことへの恐怖」、これこそが現代が抱える最大の病弊で、私たちはその病魔に深く感染してしまっているのだろうか。


                                     2011.10.26    佐々木利夫


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メディア視線の危うさ