温暖化や環境破壊などで地球が悲鳴をあげているとのテーマが、本当に地球そのものの意思みたいにあげつらうのは間違っているのではないかと書いたのは昨年の夏のことであった(別項「誰のための地球?」参照)。これから書こうとしているのもこれと同じような内容になるかも知れないけれど、最近小学生向けのテレビ番組を見ていてどこか違和感が残って仕方がなかった。
 NPOだったか個人の篤志家によるグループの活動だったかは忘れてしまったが、小学生を集めて森の手入れ方法などを経験させ、併せて森を大切にすることの重要さを伝えていこうという番組であった。

 私はそうした取り組みを不必要だなどと思っているわけではない。地球環境が急速に汚染されていく現状の下で、緑の再生を願うことは必要だとすら思っている。
 それでもそうした森の手入れを手伝っている小学生が、こぞって「森が喜んでいる」みたいな表現で自分たちのしていることを評価しているのにぶっかって、ふと疑問を感じたのである。

 それは子供たちの行っている作業が、例えば不要な木々の枝をはらうことだったり、下草を刈ることだったり、細い木々の間伐だったりしたからである。子供たちの表情は明るい。テレビカメラに向って「私たちが森を守っているんだ」、「それで森は喜んでいるんだ」みたいなあどけなさで話している。私はそのあどけなさの分だけ、一層疑問が募ってきたのである。

 「森が喜ぶ」と言う表現を擬人的過ぎるとか、森そのものが喜ぶことなどありえないだろうと言いたいのではない。仮にそうした擬人的な表現を認めたとしても、こうした手入れによって森は本当に喜ぶのだろうかと思ったのである。それはつまり、「喜ぶのは森ではなく、人間ではないだろうか」と思ったからである。

 森を壊したのも人間、それを再生しようとしているのも人間である。破壊、再生それぞれに理屈はつくだろうが、関わっているのは常に人である。森を破壊したのはその中に人間の利益を見たからである。そうした利益を経済発達だとか高度成長、更には快適な生活環境の整備などと名づけようとも、そうした大儀の下で人は利益を享受してきた。森が瘠せていったり消滅していくことを仮に悪だと認めたとしても、乱獲や違法伐採だけが悪なのではない。合法的な宅地造成、食料増産のための開墾、洪水から身を守る河川改修などなど、人が自然に手を加えてきたそのことがそのまま自然破壊であったことに違いはないからである。

 チェンソーの轟音、倒れる巨木、トラックで運ばれる丸太の山、そんな風景に対比するように逃げ惑う動物や小鳥の姿・・・。こうした比較によって一方を悪、他方を善として説明することはたやすい。でもそうした映像に善悪を重ねながら眺めている者そのものが、そうした木々で作られたテーブルや長いすで食事をしたりビールを飲んだりしている姿のほうに、より大きな矛盾を感じてしまう。

 私は例えばこうした森の手入れを含めたいわゆる「森の再生」プロジェクトの行為を、様々な自然破壊に対する贖罪の思いからだとは思わない。そういう人たちの行動や意思のなかに、例えば「原始の森に帰れ」みたいな気持ちは少しもないように感じるからである。つまり、80壊しておいて60まで戻して、それが再生したことになるなどとうそぶくのはチャンチャラおかしいように思えるからである。

 一つには、子供には一種の寓話として語りかけているのだから、それはそれでいいではないかとの意見があるかも知れない。絵本の中で熊とリスが仲良く会話したり遊んだりすることを「嘘だ」と否定するつもりはない。クリスマスにサンタクロースが世界中の子供たちにたった一夜でプレゼントを配ることだって同様である。
 私はそうした「一種の嘘」を事実とは違うとして、その真実を最初から子供に教えるべきだと言っているのではない。それらは寓意としてどこかで昇華され、いずれ子供たちの成長の過程で身の裡に事実と物語とを融合していけるだろうと思うからである。

 ならばこうした森の再生だって同じようなレベルで考えたっていいではないかと人は言うかも知れない。でも私が疑問に思ったのは、子供たちの反応よりも教えてる大人そのものが、「森が喜んでいる」ことを信じているように思えたからである。単に子供にサンタクロースの話をしているのではなく、大人そのものが森が人間による世話を喜んでいるのだと信じて教えているように思えたからである。

 細い木々を根元から鋸で切り倒していく。間伐することによって木々の間隔が広くなって日差しが根元まで届き、より立派な木へと成長していくのだと大人は教える。そのことに誤りはないだろう。でも切られた木はそれを喜ぶだろうか。森の意思と森を構成する個々の木々の意思とは違うと言うかも知れない。そうしたほうが森全体としては大きく豊かになるのだからいいではないかとの思いがそこにはあるのかも知れない。そうした理屈が分からないではない。全体がいいのなら個々の利益が多少犠牲になったところで、それは全体のために甘受すべきだと・・・。

 私たちはこうした思いや実践を歴史の中でなんど繰り返してきたことだろうか。そしてそのたびにそうした思いは間違いなのだと自身に言い聞かせてきたのではなかっただろうか。
 また切られた木々は「炭(すみ)」や「割り箸」にされたり、または燃料として利用できるから無駄遣いにはならないと、森再生プロジェクトの面々はにこやかに、時に誇らしげに自分たちのやっている仕事がいかに森に喜ばれているかを語る。そして森の再生によって生物の多様性が戻ってきて「きのこ」や「たけのこ」などとして野草の復活などにもつながっていくのだと、まさに自画自賛である。

 私はそうした効用そのものを否定したいのではない。トンボの戻ってくる環境の復活や緑の増加が、地球温暖化の防止に役立ち、強いては自然災害の防止にまでつながっていくことだって信じないわけではない。でもそれらはすべて「人間にとって役立つ」ことでしかないことに思いを及ばせる必要があるのではないだろうか。もちろん私も人間の仲間として、そうした役立つことの恩恵を受けるのだからその利益に反対しようとは思わない。

 でもそれは「人のため」であることを自覚した上での行動でなければならないと思うのである。決して「森を喜ばせる」ためにやっているのではないと思うからである。下草を刈って木を育てよう、枝を払って森を大きくしよう、そんなことどもをクリスマスプレゼントのサンタクロース並に理解してしまうのは間違いだと思う。森がそんなことで喜ぶとは思えないからである。

 擬人化は物事を単純化することで分かりやすいくなることがある。それは擬人化することで「人間が考える範囲」であるとか、「人間が感じる範囲」などの説明を省略できてしまうからである。ただそうした反面、その説明抜きの前提の中に、事実と異なるどこか曲がった意思が押し込められてしまう可能性のあることを理解しておかなければならないだろうと思うのである。

 森の再生プロジェクトもスタッフの善意や森林保護への熱意から生まれたであろうことを否定したいとは思わない。ただ善意も時に人を傷つけることのあることをきちんと理解した上で行動してほしいと思うのである。伐採される木々や刈り取られる下草にも命のあること、その命は決してその木や草が廃物として利用されることで償えるものではないこと、そして更には伐採されないで残される命の繁栄のために劣った命が犠牲にされてもいいとするような意識を是認するものでもないことをしっかり理解し伝えていくべきではないかと思うのである。そうした捨てられる木々にも命が存在していることを事実として認め、それを犠牲にすることどこで折り合いをつけていくのかを含めて人も子供も考えていくべきではないかと言うことである。

 なぜなら、森が生育してきた過程は、決して植林や間伐や下草狩りのような人為的な力で維持されてきたのではないからである。むしろ人間のいない環境で、森は自らを維持し繁栄させてきたのだと思うのである。
 だから森の再生とは「人間の驕り」をたっぷりと含んだ「人間の利益」のための行動であって、決して森を喜ばせるなんぞという善意のみから生まれてきたものではないことを基本にすえて考えていかなければならないと思うのである。

 だからと言って森の再生という行動が無意味だとか嘘まみれであって否定すべきだと思っているわけではない。むしろその必要性を是認しつつ、その行動が人の驕りやエゴの上に成り立っていることを、サンタクロース神話と平行しつつ子供たちへも理解させていく必要があるのではないかと思ったのである。だからこそそうした行動に携わる大人が、そうしたエゴや驕りから目をつぶったり、時に「森が喜んでいる」との思いに埋もれてしまって善意だらけの臭いを撒き散らしている姿に、どこかやり切れなさを感じてしまうのである。



                                     2011.2.24    佐々木利夫


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森は喜んでいるのか