地球温暖化やオゾンホールの拡大、そしてその背景にある二酸化炭素の排出だとかフロンガスの規制などといったテーマが世界中を巻き込んでいる。そしてそのことに政治のみならずNPOなどの自然擁護団体なども大合唱で、「地球を救え」が全人類の合言葉にさえなろうとしている。
 様々な統計などを見ていると、中にはそうした自然現象と温暖化ガスとは無関係であるとか、もしくは因果関係を示すだけのデータは存在していないなどの論述を張る学者もいるようだけれど、恐らく人類の快適な生活への指向が地球環境を破壊する方向へと進めていることに違いはないようである。

 「このまま放置しておくなら、地球はやがて破滅する」、「手遅れにならないうちに地球を救おう」、こうした意見が高まっていることについて私は否定しようとは思わない。ただ、私はそうした意見は分かるけれど、「一体誰のために地球を守ろう」なのだろうかと、ふと疑問を持ってしまった。
 私の好きなSF世界めくけれど、例えば巨大な彗星が地球を破壊するような衝突軌道に入ったとか、太陽の核融合が加速して間もなく地球を飲みこむまでに巨大化するなどの話ならば、それはそのまま地球壊滅につながることになるだろう。

 しかし現在叫ばれている「地球を救え」の話は、そのほとんどが地球の存在そのものの危うさを訴えているのではない。「地球がなくなること」なんか、誰もこれっぽっちも心配していないのである。
 確かに太陽という恒星の存在に、引力と暖房のほとんどを依存している地球は、数十億年の単位でいずれ白色矮星となる前の灼熱赤色巨星時代の太陽に飲み込まれて消滅することだろう。それが地球の運命であることは、多くの学説が説いているところである。それこそが地球の破滅であり消滅なのである(別稿「人は自然には勝てない?」、「死滅回遊魚」、「消える北極」など参照)。

 だが、今私たちが直面している「地球を救え」は、決してそうした結果を意味しているのではない。温暖化で海水温の上昇したり極地の氷が溶け出しすなどの結果、気象の大規模な変動に伴って地球環境が変化したり生態系の変化が起きることを意味しているのである。
 つまりそれは「地球破滅」ではなく、「人類の生き残りへの危機」を意味しているにしか過ぎないのである。もし仮にその環境破壊などが地球の破滅につながるのだとすれば、その原因を作ったのは人間である。ならば一番簡単な地球を救う方法はその原因を除去することである。原因が分かったなら、その一番の処方箋は原因を取り除くことにあるからである。

 ならば壊滅の危機にどう対処したらいいのか。まずはどうやって人類を地上から追い払うか、それとももっと過激に地上から抹殺するか、それこそが地球を守ることになるだろう。だがそこでも私は疑問に思うことがある。「本当に地球は破滅するのだろうか」との思いである。二酸化炭素が地上に充満し、オゾンホールの拡大が太陽風や宇宙線を地上に撒き散らすこと、それがそのまま地球の破滅につながるのだろうか。

 私にはとうていそうは思えないのである。稚拙な知識でしかないけれど、金星は濃厚な二酸化炭素に包まれながらも存在しているし、液化された酷寒のメタンの塊りかも知れない木星だって厳然と太陽の回りを回っており、それはこれからも数億年数十億年を超えて続くだろうからである。だとすれば二酸化炭素の増加やオゾンホールの拡大などで、地球が太陽の衛星として存在しなくなってしまうことなどありえないと思うのである。

 つまり「地球を破滅から救おう」みたいなメッセージは、「地球そのものを救う」ことに意味があるのではなく、単に人間の住みやすい地球にしよう、更には人間にとって利用しやすい地球にしようとの思惑が背景にあるのだと思うのである。なんたって少なくともあと数十億年、地球は破滅することなく存在し続けるのだから、そうした意味での破滅を防止するなど人類の能力の到底及ぶところではないからである。

 地球はこれまで巨大な隕石の衝突や氷河期や火山の爆発を繰り返してきたのだし、22億年前と6億年前には赤道も厚さ1kmの氷に覆われるような全球凍結を経験してきたのである。また5億年以上も前の地球(カンブリア紀)には極地に氷河の欠片すらなく、海洋が地表のほとんどを覆っていたと言われている。そんな中でも生命は一万種以上も爆発的に生まれたと言われているし、そうした生命も隕石の衝突や7回とも言われている氷河期などの苛酷な環境の中で絶滅に瀕しながらも生命は存在し続けてきたのである。
 そうした地球の歴史は決して生物にとって住み良い環境ではなかった。だがそれは、あくまでも「生物にとっての環境」である。地球そのものは隕石で揺さぶられようが、全球凍結が何億年続こうが存在し続けてきたのである。

 だから私は人びとの言う「人は自然の一部」だとか「地球を救おう」などという言葉がどこかおためごかしで嘘があるように思えてならないのである。鳥を大切にだとか、クジラの生態系を守れだとか、砂漠を緑に・・・などと人は様々に言うけれど、その背景にはいつも嘘で包んだ人間のエゴが潜んでいるように思えてならないのである。人類の誕生など、地球の歴史を24時間に例えるなら僅か数秒前のことだと聞いたことがある。だとするなら地球としての自然の内には、人類などそもそも存在していなかったことになる。
 地球の意思など確かめることはできないかも知れないけれど、もし仮に意見を求めたとしたなら、地球は人びとの放つ「地球を救おう」との言葉を、本当に「地球自身を守るために発せられた言葉だ」と信じてくれるだろうか。

 だからと言って私は「・・・地球の保全ではなく、その大破滅の後にこそ神による人類最期の裁きと救済があると信じて、生物多様性破壊の現状を放置する傾向のある宗教家たち」(『創造、生物多様性を守るためのアピール』、エドワード・O・ウィルソン著の訳者 岸 由ニのコメント、同書p10『日本の読者のために』より)とする見解に賛成したり、そうした宗教家の仲間になろうなどと思っているのではない。また「自然破壊が人類の望みなら、その望みを叶えさせてやろうではないか」と思っているわけでもない。

 ただ、「環境が滅びるとき文明もまた滅びるのだという歴史の原則」(前掲書p25)を理解した上で、人類を守るためにこそ環境の破壊を食い止めるべきだとの思いをこそ発信していく必要があるのではないかと思っているのである。
 自らを当事者以外の高みに置き、しかもその陰に隠れて利益の分配や反射的な利益を享受しようとするのは、どこか姑息な手段のように思えてならない。目的は「地球を守ろう」なのではなく、「人類の今を守ろう」にあるのではないかと思うからである。

 たとえそうした思いの行末が地球そのものにとっての好ましい結果ではなく、場合によっては人類のエゴ丸出しの主張を招く結果になるとしてもである。私にとって「地球を救うこと」と「人類を救うこと」とはまるで無関係ではないかと思っている。地球を救うなどの主張は、おいしそうな衣に包んだ丸っきりの嘘だと思っているのである。宇宙から見た青い地球、水と緑に囲まれた地平線の姿は人類にとっての理想に思えるかも知れないけれど、それが地球そのものにとって望ましい姿だとどうして言い切れるのだろうか。
 だから私は、「地球のため」なんぞと言う偽善の隠れ蓑を外し、もっと赤裸々に「自分のため、私のため」だと主張するほうが今の環境破壊の現実を多くの人々にきちんと理解してもらえるのではないかと考えているのである。



                                     2010.7.10    佐々木利夫


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