蒸気機関車の通るトンネルを、歩いて通り抜けた記憶については以前にここへ書いたことがある(別稿「
昔、夕張鉄道があった(1)」参照)。ところで北海道には「念仏トンネル」と呼ばれる、いささかおどろおどろしい名のトンネルが存在している。普通トンネルとは列車か車を通すために山などを掘りぬいた通路が一般的であり、歩行者のためだけにあるトンネルというのはあんまり聞いたことがない。
もっともトンネルとは、人専用に作ったのが最初だったかも知れない。隣の町へ行くためにはそこに山が立ち蓋がっていれば山肌を縫って峠を越えるのが常識だっただろうし、その障害が川ならば橋を作るか渡船を利用するしかない。人はそうして離れた地域と地域を結び付けきた。そうした思いの延長に、山を掘りぬくというトンネルの発想もまた存在していたのだろう。
そうは言っても人専用のトンネルもやがては人と車の両用に変化していったし、車社会の現代ではむしろ車専用のトンネルの方が主流になっているのかも知れない。私の数少ない経験ではあるが、九州大分県耶馬溪の近くで名だたる「青の洞門」を訪ねたことがある。川に沿った崖を手掘りで作ったとされる伝説のトンネルだが、現在ではすでに幅員の広い人車両用の舗装道路になっていて、いわゆる「洞門」のイメージとは程遠かったのを記憶している。
ところでこの「念仏トンネル」だが、私が通行したときは人専用であった。とは言ってもマイカーを手放してから10年近くも経っていて最近の情報は皆無だし、私がここを通って間もなく代替の山道が完成したことで通行止めになったと聞いているから、現在でも通行できるかどうかは保証の限りではない。
場所は積丹半島の先端である神威岬まで数十メートル(?)程度手前の地点である。今からなら20年ほども前になるだろうか、その頃積丹半島を車でぐるりと一回りすることはできなかった。東側ルートは余市(よいち)から東ルートを通って美国(びくに)を経て先端近くの余別を交わし、神威岬から数キロ進んだ地点で道路が途切れていたからである。反対の西側ルートは岩内方面から、いわゆる西積丹沿いに北上するが、この道も神威岬まで届くことなく道は途中で途切れていた。もちろん今では立派な周回道路が完成していて、格好の観光ルートになっていると聞いた。
さてそれでは、この念仏トンネルを目指して東積丹側を通って積丹半島の先端へと向おう。半島の突き当りの海を右に折れると積丹岬へ通じ、反対の左に折れると目的の念仏トンネルのある神威岬へと通じている。トンネルに向うためには神威岬の駐車場に車を停めて徒歩で向うしかない。おおよそ1キロ弱程度の行程である。小高い崖の上に無人の灯台があって、その先の眼下に海中からにょっきりと神威岩と呼ばれる細長い岩が屹立しているだけの、特別に珍しい風景が見られるわけではないのだが、高いところに登りたがったり、先っぽまで行きたがるのは人の常だから、けっこう人気の高いスポットだった。
今は灯台まで山道がつながっていると書いたが、昔は海岸沿いに歩いて行くこともできた。歩くといっても特別に道らしい道があるわけではない。ところどころ岩を集めた通るための工夫らしき跡を見ることはできるものの、岬へ向う海岸は崖下の僅かな波打ち際を時折海中から覗いている岩を頼りに伝い歩くのである。もちろん僅かながら岩浜じみた数メートルの海岸線もないではなかったが、ほとんどが海水に洗われる岩が足場であった。そんな道なき道を進んだ海岸から少し上ったところに念仏トンネルの入口がある。
山道があるのだからトンネルは必要ないような気もするが、恐らくはあまりの険しさゆえにかつては山道は作れなかったのだろう。岬へ行くためには船を使うか海岸を歩くしかなく、その歩くことも絶壁に阻まれて困難だった時代に、必要に迫られてこのトンネルが作られたのだと思う。工事は大正初め頃だと言われているから、どうしても岬に行きたいと願った当時の人たちの執念がこのトンネルになったのだろう。海岸線の伝い歩き、そして突然のトンネル、ただそれだけの一本道、そしてそのためだけのトンネルである。
ところでどうしてこのトンネルのことを思い出したかと言うと、実は「真っ暗闇」を自身で経験したのがここだったことを突然思い出したからである。現代はどこに行ったところで真っ暗闇を経験することなどまずない。理論的には道なき道を山奥まで歩き続ければ、街灯のない暗闇を経験することはできるだろうが、日常の生活ではまずそんな状態に遭遇することはないだろう。
ところが身近に「真っ暗闇」が存在したのである。だからと言って私はそうした暗闇を経験するためにここまで来たのではない。たまたま海岸沿いに岬まで行けることや途中にトンネルがあることを聞いて、単なる遊山客としての興味から訪ねたに過ぎなかったからである。そして突然に真っ暗闇になったのである。
トンネルがいつもまっすぐだとは限らない。それでも私が歩いたり通ったことのあるトンネルは、多少の曲線部はあったかも知れないが、それでも目の前には遠い近いはともあれ出口が明るく見えていた。もちろんその明かりが足元まで届くことはなかったけれど、レールや近くの水溜りや濡れた壁などに反射した光はその出口が私まで届いていることをしっかりと確かめさせてくれていた。また車で道内はもとより東北や名古屋付近まで足を伸ばしたときにも、曲がっていて出口の見えないほど長い高速道などのトンネルを経験したこともある。だがそんなときだってトンネル内は煌々と明かりが灯っていたから暗闇なんぞを味わうことはなかった。
でも念仏トンネルは違ったのである。ものの見事に真っ暗だったのである。トンネルに入ったとき、私は一人だった。入ってすぐに気づいたのは出口が見えないことであった。トンネルの実際の長さを私は知らなかったけれど、ほんの10数メートルくらいであろうことは、人伝てで聞いたのか海岸から見上げた灯台までの距離感からか、それとも全工程の所要時間から割り出したのかは分からないが、おおよその予測はできていた。だから延々数キロも続くような長いトンネルでなく数分で抜けられるであろうことくらい知っていた。にもかかわらず出口がないのである。出口が見えないのではない、予期していた出口がないのである。時は真昼間であるにもかかわらず、暗闇に目を凝らし目を慣らしてみても、どんなに小さくてもいい見えるはずの出口の明かりがまるで存在しないのである。これではトンネルではない。まるで洞窟である。そして恐怖が襲ってくる。出口のない洞窟に足を踏み入れることはもしかしたら戻ってこれないかも知れない、そんな恐怖を私をあおる。明かりが見えるなら、それを頼りにたどり着くことができるけれど、このトンネルは無限遠の彼方へと続く奈落そのものである。
思わず足がすくんだ。未知の洞窟への初めての一歩である。頭では抜けられるはずだと理解しているけれど、肝心の一歩を進める度胸がついていかない。一人の恐怖も手伝って思わず引き返そうと考えたとき、後続者の声が聞こえてきた。若い男女数人だったような気がしている。その声に私は振り返ることもせずに歩を進めた。後ろから聞こえる、「キャー真っ暗」だとか「前が見えないー」などの騒ぎ声はそのまま私への何にも増した心強い応援歌である。さっきまでの孤立していた臆病者は、その恐怖心を知られることのないのを幸いに、たちどころに孤高の勇者へと変身してしまったのである。先頭切って私は真っ暗な空間を手探りで進む。数分だろうか、トンネルは行き止まりになり通路が右に曲がっていると分かった。そして間もなく左へとトンネルは曲がり、その先に出口の明かりが見えてきた。偽りの勇者の抱いたホットさは格別である。
かくして私は無事にトンネルを抜けて灯台、つまり神威岬の先端へたどり着くことができたのであった。ところでこのトンネルがそれほど長くないのに真っ暗なのは、どうも掘り進める方法に原因があったからのようである。つまりトンネルと言うのは入口出口の双方から掘り進めて行って、中央で合流して完成させるのが通常である。それが設計が間違ったらしくこのまま掘り進めて行っても互いの方向が多少ずれているために合流しないことが分かったらしい。それでこれは伝説じみた話になるが、掘っている人たちが互いに念仏を唱えたり鉦を「チン」と鳴らすなどして、その声や音を頼りに二つのトンネルの接続を試みることにしたのだそうである。
そうした作業手順になった結果、このトンネルは接続部分が直角に近くなった、いわゆる稲妻型の構造になってしまったという。したがってそれほど長いトンネルでははないにもかかわらず、入口と出口がはすかいになってしまって互いの光が届かなく、それはそのまま真っ暗闇な空間を作ることになってしまったということである。
このトンネルへはその後も2〜3度行ったことがあるけれど、最初に味わった手探りの恐怖は別格であったことを今でも思い出す。たとえそれが手を伸ばせば天井にも両脇にも届くような狭い空間であったとしても、光の全くない空間ではまさに広大な宇宙の只中にポツンと一人置いてけぼりを食ったような気になるものである。そして星の光すらないこんな天涯孤独の真っ暗闇の経験は、後にも先にもこれが最初であった。
2011.4.30 佐々木利夫
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