戦争の意味を「採算」みたいな言葉で考えようとすること自体、どこか不謹慎で非常識でとんでもないことだと認識はしている。戦争の目的と言うか意味には様々な要素が考えられるだろうし、ときにそれは男と女の愛が原因だとする話だってないではない(別稿「愛のためのたたかい」参照)。それでも多くの場合祖国を守ることや圧政からの開放であり、侵略への抵抗や信ずるものへの恭順などなどが語られる。だからこそそうした原因の全部といっていいほどに、正義の衣がまとわれているのだろう。

 でも私のつたない理解にしか過ぎないけれど、そして戦争を起こした者がどこまでそのことを認識していたか疑問ではあるけれど、戦争にはどこかで「採算という利益」がいつもからんでいたように思えてならない。戦争の多くが自国の領土を広げることにあり、そこに住む他民族を支配し略奪し殺戮することによって、租税・貢物・賠償金・資源の支配などなど、どんな形にしろ金銭的な利得を得ることに結びついていたような気がしている。

 それは現代でも変っていないのかも知れない。虐げられた祖国の独立を願い、艱難辛苦、場合によっては数十年もの戦いの果てにそれが実現する。さあ、これでこの地は我が祖国になったのであり、これからは自主独立の自由の地である。独立バンザイ、でもどの国もそこで話が終わりになることはない。童話での戦いは勝利の宣言をすることで「みんなみんな幸せになりましたとさ、めでたし、めでたし」と結ばれるけれど、現実世界はそこから新たな戦いが始まる。どんな社会にも勝者、支配者に対する不満分子は存在するし、利権を巡る民族対決や宗派対立などが新たな火種となって、またぞろ国民を紛争へと巻き込んでいく。

 一国の統治というのは、つまるところ宗教などの調整の場であり、福祉や産業などを通じた豊かな国づくりを目的とするものだろう。だとすればその国づくりには「金が不可欠に必要」になることだろう。そうした資金の必要性はもしかしたら戦争を引き起こした者の「個人の利益」ではなく、あくまで「国を思い維持していくための利益の確保」にあるのかも知れない。
 ただいずれにしても、戦争の背景にはそうした利権の影がつきまとって離れない。たとえ大統領の名の下にスイス銀行に私的な利益を溜め込むことであろうと公的な予算の確保であろうともである。どちらにしても戦争が「私に、または国に」利益をもらたすと考えていることに違いはない。だから私には、戦争はどこかで、もしくはひっそりと仮面で隠しているのかも知れないけれど、採算を考えて行われているように思えてならない。

 ところで採算というテーマで戦争を考えようと思ったのは、最近どうも「戦争は儲からない」ようになってきたのではないかとふと気づいたからである。アフリカ諸国や中近東などの争いを見ていると、隠し預金の凍結だの統治者本人や家族のなどの豪華な生活など、まだまだ個人の利権が大きく結びついているようなケースの見られないではない。でもアメリカやロシアやヨーロッパや中国などの比較的大きな国の戦争を見ていると、最近の戦争はどうも儲からなくなってきているのではないかと思うようになってきたのである。

 その背景には現代社会の高度なハイテクと情報のスピード化やネットワークがあるように思える。いつしか戦争はハイテクの戦いになってきた。それはもちろん弓矢をはじめ石投げ器などの進化から原爆や人工衛星などの駆使にいたるまで、人類の歴史は言葉を代えるなら兵器の歴史でもあったのだから、いまさら驚くことではないだろう。

 ところが、例えば私が6歳で敗戦を経験した戦争(1946年、第二次世界大戦)に思いを馳せると、私たちが学校給食などで提供された食材の多くにアメリカの放出品があった。その多くはアメリカの戦闘員のための補給物資だったのかも知れないけれど、背景にユニセフなどの国際機関が関与していたにしても現実的にはアメリカからの支援であった。世界大戦なのだから日米だけの問題ではないにしても、現象的には日本はアメリカに負けたのである。その戦勝国が敗戦国に賠償を求めるどころか逆に支援するような形になっているのである。

 そうした状況にいったん気づいてみると、最近の戦争はとんでもなく採算が合わなくなってきているような気がしてくる。アメリカはベトナム戦争でどれほど国民に財政的にも精神的にも犠牲を強いたことだろう。アフガニスタンやイラクとの戦いは、国内の経済力をどんどん低下させていっている。戦争は儲からないのである。

 それはなにもアメリカに限るものではない。ソ連(ロシア)も戦勝に次ぐ戦勝で際限なく領土を広げていった結果、今では他国との領土紛争、戦勝した領土の独立紛争などに悩まされている。中国もまた然りであり、広大な領土というのは、どこか持て余し気味になっているように思える。。
 そして一方でハイテク化した戦争道具は、湯水のように資金を必要とするようになってきた。徴兵制度で集めた兵隊の命を指導者がどこまで大事に思っていたかは疑問ではあるけれど、戦争に勝つことさえできれば、賠償金にしろ経済取引の独占にしろ、戦費はいずれ回収でき国民は豊かになると考えていたことに違いはないだろう。

 そうした人海戦術による戦争がミサイルや戦闘機による戦いになってから、そして世界が情報ネットワークで結ばれて国際的な非人道行為が暴露される可能性が高くなってきてから、戦勝することは自国のためではなく相手国の自主独立への支援なのだという形態に変化し、自国の利益は表面からすっかり隠されるようになってきた。それはつまり相手国の中に自主独立の気運を醸成し、彼らを正義の名のもとに支援するという形をとるのである。その支援とは武器の供与だけではなく、自国の軍隊による支援であり、国際会議等における支援の表明でもある。それはアメリカの活動であるベトナム戦争やアフガン戦争にはっきりと現れている。

 だが戦費の増大、それもとてつもなく巨大な支出は、自国の経済すら疲弊させることになった。つまりは戦争は儲からなくなり、逆に自国を疲弊させる要因になってきているのである。その現実が世界の警察と言われるほどにも世界に君臨してきたアメリカの凋落振りに誰の目にも分かるまでに表れてきている。

 恐らくそうした背景には、まだまだ独裁政治や独裁支配者が存続していくであろうことへの恐怖があるのだろう。核兵器の作り方がインターネットに掲載され、比較的簡単に自作できるまでになってきていることも後押ししているのかも知れない。
 それにしても、戦争そのものが現代では変節してしまっているいることに私たちも気づいていく必要があるのではないだろうか。



                                     2011.10.3    佐々木利夫


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採算としての戦争