思想信条の自由と言う考えは憲法に規定され保障されているから成立するのではなく、人が人であるとして国家または権力に、自分の意思で立ち向かうことの基本にあるのだろうと思う。もちろん、そうした人としての自尊が弾圧され抑止されている多くの国が存在していることを知らないではないし、たとえ保障されているかのような状況の下でもすべての人に対し平等に確立されているわけではないことも承知している。
ただ私は、「思想信条の自由」の意味を、「自らの意思として考えること」と「その考えを実力で行使する」こととを混同してしまうのは間違いだと思うのである。恐らく「思うこと」と「実行すること」とは一本の直線状に位置しているのかも知れない。ある人を殺したいと「思い」、計画を練り、メモし、凶器を購入し、場合によって相手もしくは第三者に予告し、そして実行する。そうした行動は別に殺人のような犯罪だけに限るものではない。東北大震災の被災地に寄付したいと「思い」、財布を眺め色々考えた末に、「0円、10円、100円、千円、一万円」を募金箱に入れることだって同様であり、ボランティアとして現地の瓦礫の処理に参加するかどうかの決定だって同様である。それはどんな悪意の行為であったとしても、どんなに賞賛されるような光り輝く善意の行動であっても、「思い」と「実行」が一つの線で繋がっていることは同じだと思うのである。
それでも人は、そうした「思い」と「実行」との混淆をどこかでしがちである。そのことを感じたのはつい先日の新聞への「君が代の最高裁判決」に対する投稿意見であった。君が代問題については今年4月ここへ発表しているから(別稿「
教員の誇り」参照)、そこでの意見と重複するかも知れないけれど、「思うこと」の意味と「実行すること」の違いを人はどうして理解できないのだろうかと、またまた感じたのであった。
公務員に異論封殺 望まない(2011.6.14、朝日新聞、声、学習塾主催者、54歳男性)
最高裁の「君が代」起立斉唱命令合憲判決について・・・二つの相反する意見が掲載されました。・・・誰もが自分の意見を自由に述べ合えることはとても大事なことだと感じました。・・・では国民すべてが「君が代」への敬意表明の強制を教育公務員に求めていると言えるでしょうか。・・・国民の中にある異論は、公務員の中にもあると容易に推察され、そうした異論を強制によって封殺し一つに束ねる必要があるでしょうか。・・・公務員が思想の自由を保障する憲法の下、良心に従って行動することが命令違反に問われる、その事態こそ問題だと考えます。
投稿の要旨はこんなところである。確かに最高裁は君が代斉唱に対して合憲の判決を出した。ただそれは、君が代を歌わなかったことに対して「歌え」と命じたのではない。卒業式のスケジュールとしての「君が代斉唱」の場面で起立すべきとのルールに従わなかった教員の行為が公務員法に違反するとして処分を受けた教員が、その取り消しを求めて訴訟提起され、公務員法に反したとした懲戒処分に対して、最高裁は憲法違反はないとしただけのことなのである。
それのどこに違いがあるのだと反論があるかも知れない。「起立しなかったこと」と「式典のスケジュールの中に決められていた起立に従わなかったこと」とは、結果的に同じではないかとする意見が同じではないかと言うかも知れない。でも私はこの二つは明確に違うと思うのである。
式典に従わなかったこととその行為が懲戒処分に当たるほどのものかどうかの、いわゆる処罰の軽重については触れない。免職に値する行為なのか、それとも単に口頭で注意すれば足りる程度の軽微な違反ではないかなどの判断は、式典に従わない行為が適法かどうかの判断とは無関係だからである。つまり裁判所は、式典に従がうべきとの規定(ここでは君が代の斉唱時には起立せよとの命令)が、憲法に定める個人の思想信条の自由からみて違法なのかそれとも適法なのかの判断を求められ、最高裁はそれを適法だと判断したのである。
ある行為が違法かどうかはつまるところ裁判の場でしか決着はつかないことがある。特に憲法違反かどうかは、憲法そのものが極めて抽象的、象徴的にしか規定していないことから迷う場合が多い。自衛隊は軍隊なのか、武器の製造や輸出は戦争放棄に抵触するのか、義務教育はどの範囲まで無償なのか、思想や表現の自由はどこまで認められるのか・・・、などなど憲法を巡る解釈の相違は学説のみならず多くの国民をも巻き込んで混沌としている。そうした時に、一つの判断を示すのが裁判であり、そのために憲法は違憲審査の権限を裁判所に委ねたのである(憲法81条)。
そのことはまさに違憲審査を、国民自身の手に委ねたのではないことを意味している。つまり違憲審査の判断は裁判所の専権事項であり、個人なり団体が勝手にしてはならないことでもある。
個々人が己の信条に従うことは民主主義の基本であり、それを基礎においてこその自立した国家になることを否定はしない。ただ、そうした思想信条の自由の保障と、その保障に基づいて自分の思うように行動することとは違うと思うのである。自分の意見と異なる意見や、規律や、習慣や制度や常識、そんなものは世の中に数多く存在している。国民はすべて法の下では平等だと憲法は書いているけれど(憲法14条)、国民のそれぞれが考えている平等の意識はそれとはまるで異なっていることだろう。つまりは一億人一億色だということであり、平等にしたところでそれぞれがそれぞれの意見や意思を持っているということである。
それを「思想信条の自由」の下で、各人の思いに任せて開放することが社会のルールとして正しいことだとは思わない。もちろんそれぞれが意見を述べたり、自分で考えることそのものを否定するものではない。しかし、私たちはそれを慣習と呼ぶかそれとも法律と呼ぶかはともかくとして、一つのルールを定めそのルールに従うことで社会を維持していく道を選んだのである。
だから私は、君が代斉唱にあたって所属する公務員に起立を求めるルールが成立していて、そのルールが自らの信条と反しているのなら、その人はルールを無視するのではなく変えるような行動へと向うべきだったと思うのである。それは決して実力行使という手段であってはならず、それを決めているルールそのものを改変するという方向へと向うべきだったと思うのである。
そして、どうしても我が意に沿わないとしてルールに反した行為をとったとするなら、自らの行為がルールに反していることは自認しているはずなのだから、裁判所の判断が示されたならば法治国家の一員としてその判断に従うのが国民としての守るべきルールではないかと思うのである。そしてそうした事実を知った者も、そうした裁判所の判断を尊重すべきだと思うのである。
「気に食わない奴は殺してもいい」、「卒業式など愚劣な式典は無意味だから会場を爆破したっていい」、「もっと裕福になりたいのだから他人の金銭を奪ってもいい」などが私の思想であり信条であり思いである、だから憲法に保障された正当な権利だとの理屈は、誰も認めることなどないだろう。でもひっそりと言うのだが、そんな過激な思いにしたところで「思うこと」そのものを否定されることはないのである。たとえ地球を破壊するような考え方だったとしても・・・。
「一色に染まる社会はいやだねぇ」(野中広務、元自民党衆院議員、2011.6.28、朝日新聞、争論)と今回の最高裁判決に異論を述べる意見もあるし、
「ルールを拒むのは言語道断だ」(橋下徹、大阪府知事、同上朝日新聞)と賛成する意見もあるなど、同日の朝日新聞の社説も含めて様々な議論があることだろう。ただ、私が野中氏の意見に反論したいのは、少なくとも君が代起立条例をなくすように世論へ訴えかける行動をも最高裁が否定したのではないことである。公務員として卒業式での君が代斉唱時に教育委員会が職務命令定めた起立に従わなかったことと、例えばオリンピックの表彰式や相撲の千秋楽などで流れた君が代にテレビの前で起立しなかったこととはまるで違うのだということである。
そしてもう一つ、私には「君が代」そのものを特別視する教員や政治家などの思いがいまひとつ理解できないでいる。どうやらその背景には軍国主義へと向う危機感みたいな思いが感じられるけれど、戦中に生まれすでに70歳を超えた私でも、その危機感みたいな意識が共有できないでいるのである。私にとっての君が代は、それほど意識しているわけではないけれど、オリンピックや相撲に出てくる程度の「日本の国歌」であり、これからの戦争はもとより60数年前の第二次世界大戦の軍事教育に結びつけるような記憶は何一つ残っていないからである。恐らくこの君が代で処分を受けた者のほとんどは、私よりも若いだろう。私以上の年齢の者で現役として公務員に残っている者はほとんどいないだろうと思うからである。そんな若者がどうして私以上に君が代に危機感を抱くのか、また逆に君が代をどうして神聖視するかのような発言があるかも含めて、危機感に鈍感になっているせいか私はどこか混乱してしまっているのである。
2011.7.1 佐々木利夫
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