今年3.11の巨大地震に伴う津波、そして原発事故に関して「想定外」という言葉が何度か使われ、やがてその言葉が禁句にさえなってきた。つまり、想定外と言うのは責任逃れの言い訳にしか過ぎず、その言葉を使うことで自らの責任を回避しようとするのはけしからんという意味である。それに対して私は、どんな計画にしろ危機管理にしろ、想定なしに企画したり対策をとったりすること自体できないではないかとの思いをこれまで抱いてきた(別稿「
原発の未来」参照)。
「想定」という表現自体はそれほど珍しい使い方ではない。ただかつてライブドアの社長だった堀江貴文がニッポン放送株の取得を巡って大騒ぎになったとき、殺到する報道陣に向って「想定内」との発言をしたのがその年(2005年)の流行語大賞に選ばれたことで、一躍この語が世間に流布するようになったことは記憶に新しい。
今回の巨大地震も含めて、どうも「想定」という語には、どちらかというとマイナスのイメージが付きまとうようで、言葉の使い方に興味を持っている私にしてみれば現在のマイナス評価には「想定」君が気の毒なように思えてならない。
それはともかくとして、今回の巨大地震による被害が想定外であったことは、私たち誰もが感覚的には理解できるはずである。だからと言ってある事態が「想定外」であったとしても、それだけで例えば管理する者や設計や施工をした者の責任を免責されるものではない。想定外であったことと、想定そのものが妥当であったかどうかとはまるで違うことだからである。想定外とは決して不可抗力であることを意味するものではない。避けられない現象だったというのを、金がないことや予算がないせいにしてしまうのだとするなら、想定外の意味するものはまさに責任逃れになってしまうだろう。
だから責任逃れを許さないという意味で、想定外を乱発する風潮を批判し、むしろ「想定が甘かった」ことを追求し、責任者や政府や管理者などそして更に今後の想定へどのように結び付けていこうとするかの動きは当たり前に理解できないではない。
ただ私が想定外という語の乱用を責め続けるマスコミの風潮にいささかの違和感を感じてしまうのは、言葉を代えただけではなんの解決にも結び使いないのではないかと思うからである。違う言葉に代えたところで、結局は「予想できなかった事故」と言う、「想定外」を単に別の言葉に翻訳しただけになってしまうからである。
「責任回避は許さない」、このことは正しいだろう。でもどこかで「想定」しなければ物事は動いていかないこともきちんと理解しておかないと、結局は想定しなかったという悪者を作り、そこに責任を押し付け、私は被害者であって何の責任もなかった、そんな状況だけで流れてしまうのではないだろうか。
私は「想定外」は常に存在するのではないかと思うのである。10メートルの津波が来て、5メートルを想定して作っていた堤防が役に立たなかった、それは想定が甘かっただけのことである。でも10メートルを想定して防波堤を作ればそれでよかったのか。15メートルの津波がきたら、その想定もまた甘かったことになるのだろうか。人の命は地球より重いという言葉はよく使われる。結果論としては15メートルの津波の前にその想定は甘いことになるだろう。日本列島全体をぐるりと100メートルの防波堤で包み込んだら、完璧な想定になるのだろうか。恐らくそうした堤防だって、例えば巨大隕石の衝突みたいな天変地異の前では役にたたないことだろう。
「想定外」を言い逃れだとして糾弾することの意味は分かった。でもどんな対策にも「絶対」や「完璧」はない。人はどこかで「起こり得るであろう事態」をどんな形にしろ想像し、それに対処するためにどこまで自分を犠牲にできるかを考えていかなければならない。それが税金という金銭による犠牲になるか、それとも使役のような労働力の提供による犠牲となるか、それとももっと別の負担の形をとることになるかはともかくとして、100メートルの防波堤で日本列島を包み込むために、私たちはアラジンの魔法のランプや打ち出の小槌を持っているわけではないのだから、単に念じるだけで実現するわけではない。
想定とは常に妥協である。100メートルの防波堤を作るには、誰かに頼んで金を払って作ってもらうか、または自らが石を積みコンクリートを練って作り上げるしかない。そこで想定が登場する。恐らく50メートルでも大丈夫じゃないだろうか、列島ぐるりと一回りするのでなくても太平洋側だけでいいじゃないか、とりあえず東北沖だけにして、それも50メートル以下でもいいじゃないか・・・。恐らく多様な意見が出てくるだろう。そのときは恐らく資金対策として税金の問題が起きるだけで、使役であるとか労役の話は出てこないだろう。
秦の始皇帝は万里の長城を作ることで、異民族の侵入から自国を完全に守りきれる信じたのだろう。後世からたとえ世界の三大馬鹿と揶揄されようとも、当時はそれが正しいと信じたのだろう。どれほどの金が投入されたのか、どれほど多くの人々の労役や苦役などがあったのか私は知らない。現代でそうした手法が可能かと問われるなら、恐らく無謀と答えざるを得ないだろう。だとすればそれは人的投入はボランティアでも不可能だろうから結局は租税、それも金銭による租税で賄っていくしかないだろう。
それはまさにどこまで国民が負担できるかにかかっているのであり、福祉や防衛や教育や公共サービスなども含めた適正配分の問題になる。そしてその配分に常につきまとうのが想定に対する妥協である。医療や年金や介護はここまでも一つの想定である。潜水艦は要らないとの判断も、義務教育はここまでなども同じ想定が介入してくる。100メートルの防波堤で日本列島を囲むことは、津波に対する安全を保証するだけの機能しか持たせるはできない。だからと言って際限なく租税を課すことは、専制君主やお代官様の時代ならともかく、論理的にも無理がある。そうした想定に対する適性配分に私たちはどこまで意見を述べ、どこまでどんな形で参加することができるか、想定外と言う語が抱えている問題に対する答えには、そのことが問われているのである。
つまり私が言いたいのは、私たち一人ひとりが自分のこととして「想定」そのものに参加していかなければならないことである。税金を納めることだけで、「俺たちは血税を支払っているのだから集めた方はきちんとやるべきだ」と言い募るだけでは、責任を転嫁するだけの意味しかない。任された側は「与えられた予算と権限と知識の範囲内一生懸命やりました」と答えるだろう。どんな場合も人任せにしてしまえば、常に責任転嫁の、そして責任回避のための「想定」にしかならないことを私たちは理解しなければならない。私たちが100円を募金箱に入れたり、福島産の米を買ったりすることで、どこか罪滅ぼしをしているような気になっているだけでは、決してこの想定外の持つ呪縛から逃れることはできないことを自覚する必要があると思っているのである。
2011.9.24 佐々木利夫
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