このホームページには私が読んだ本のタイトルを羅列したページがある(「読書記録・平成23年」他参照)。せいぜいが年70冊くらいだし、特別に傾向を持った読書ではなくまあ乱読の部類に入ることは、脈絡のない行き当たりばったりの書名を見ただけで一目瞭然である。

 ところで新聞でもいわゆる書評と呼ばれるものを毎週のように載せているけれど、図書館から借りてくる読書が専らになっている私にとってはあまり関係がない。それは書評に選ばれるような本は当然のことながら新刊書が多くまだ図書館には入庫していないことが多いこと、仮に入庫していても人気があって予約が重なっていて手元に届くまでには数ヶ月から場合によっては半年以上もの順番待ちをしなければならないこと、専門書の類は購入対象になりにくいこと、などがあるからである。
 それに私にはどうもへそ曲がりの癖があって、どちらかというと好評一辺倒の評釈になりがちな書評対象の本には、なぜか読む意欲が失せてしまうからでもある。

 それでもとりあえずはざっとながら、新聞に載った書評には目を通す癖がついている。そんな中に、「死のテレビ実験、人はそこまで服従するのか、C・ニック、M・エルチャニノフ(著)」があった(朝日新聞、2011.10.16、評者 逢坂 剛、作家)。
 少し引用が長くなってしまうが、その書評の概要は次のようなものであった。

 「・・・結論は、<テレビは人を殺す可能性がある>という、衝撃的なものだ。・・・回答者(になりすましたサクラ)が答えを間違えるたびに、出題者(クイズ番組と信じる被験者)はレバーを押して、相手に電気ショック(実際には通電されていない)を与える。間違えるごとに電圧が高くなり、回答者はどんどん苦痛の色を増していく(ように演技する)。そうした状況下で、出演者はどこまでレバーを押し続けるか、という実験だ。・・・(別の人が行った同じような)実験では62.5%の被験者が、なんらかの葛藤を示しつつも、最高の450ボルトまで、レバーを押し続けた。ところが本書の実験では81%もの(普通の人びと)が、最高ボルトまで操作を続けた、という。これは実際に通電したとすれば、死にいたる恐れのある強い電流で、それは被験者も承知していた。学術実験ではなく、単なるテレビのクイズ番組で、人はレバーを操作し続けた。ナチスのような権威もない、単なる(テレビというシステム)の命令に人びとは服従したのだ。テレビは視聴者になぜそうした強い影響力を、及ぼすようになったのか。その分析結果は綿密で、・・・分かりやすい。それだけに、恐ろしさはひとしおだ」

 私はまだこの本を読んでいない。だから単なる書評をもとにこうした意見を述べるのは、どこかで間違いを犯す可能性がないではない。それにもかかわらず、この書評を書いた者のこの著作に対する評価がどこか勘違いしているのではないかと思えてならなかったのである。

 それは被験者がスイッチを押すことで場合によっては回答者が死ぬこととの関連をどのように被験者に知らせていたのだろうかとの疑問であった。回答者が例えばユダヤ人だから、例えば死刑囚だから、例えば強姦魔だから、例えば安楽死を望んでいる臨終間近の老人だからなどなど、死の執行が当然もしくは止むを得ない、仕方がないと思われるような何らかの先入観を事前に被験者が知らされていたとは思えない。それはこの実験が学術実験ではなく単なるテレビのクイズ番組であることが明らかにされているからである。仮に回答者が誰からも「死んでもかまわないと思われるような対象者である」と思わせるような前提があったとするなら、実験そのものがナンセンスになってしまうだろう。

 繰り返すがこれはクイズ番組でのゲームである(と被験者は信じている)。だとするなら、現実に人が死ぬことはない、スイッチを押したことによって殺人者とされることなどない、仮に死ぬような場面が映し出されてもその死は架空である、死もまた装われたゲームである、そんな思いは被験者であるスイッチを押す側が当然に考えたことではなかっただろうか。そのゲームがどんな環境や状況下で行われたか知らない。でもテレビで放映するクイズ番組なのだから、少なくともその場に司会者やテレビカメラを操作する者、番組ディレクターなどのテレビ局としてのスタッフ(を模した者)がその場にいただろうし、場合によっては観客に扮した者だっていたかも知れない。そんな中でクイズが始まる。被験者と回答者が同じ場所にいるかどうかは分からない。でも苦痛にもだえる回答者の姿を、被験者は直にか又はテレビモニターなどを通じてリアルタイムで見ていることはこの実験の前提からして明らかである。

 「被験者は現実に人が死ぬことを信じていた」、こうした前提がないなら実験そのものが成立しないことは明らかである。この書評の前提は、スイッチを押すことで人が死んだ、それも81%もの被験者が回答者の死を選択した、だからテレビというシステムに取り込まれた人は場合によっては人を殺すのであり、そうたテレビシステムに影響される普通の人びとの行動は恐ろしい・・・、にある。つまり、被験者はスイッチを押したことで現実に人を殺したことを認識している、認識しつつスイッチを押したとの前提である。麻薬や催眠術などを使うのではなく、単にテレビのゲーム番組というだけで人は人を殺すことができる、そうした一般人の陥る恐怖を書評を書いた者も著者も言いたいのであろう。

 でもそうした前提が果たしてこうした状況下で成立していると信じてもいいのだろうか。そしてその結果をこの評者や著者のように解釈してしまっていいのだろうか。そこのところに私は、どうしても理解しがたい思いを抱かされてしまったのである。

                                      「死のテレビ実験(2)」へ続きます。


                                     2011.11.3    佐々木利夫


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死のテレビ実験(1)