私にはテレビのゲーム番組で、「参加者が現実に殺人を犯すような場面になるはずなどない」ことは、被験者も含めて誰もが抱く当たり前の、そして承認している了解事項だと思うのである。もし仮にもせよ「人が死ぬ」ことが現実に起きる可能性があるとするなら(そんなことを考えること自体が非常識だと思うのだが)、事前に「死を与えることは正当な行為である」ことや、少なくとも「死に至らしめたとしても、その行為が犯罪に問われることはない」ことを参加者に予め知らせておくことなしに、番組そのものが成立するとは思えないからである。

 もちろん少し違ったゲームの進行も考えられないではない。被験者には「回答者が死ぬことはない」と知らせておき、ゲームの進行中で死の可能性を示唆していく方法である。また死の可能性を示唆したにもかかわらず、被験者はゲームに熱中して死のスイッチを押してしまったとの想定も可能である。でもこれもまた書評の前提である「死の執行になることを被験者も知っていた」とする記述に反することになる。

 まだ選択肢はあるかも知れない。被験者が死の意味を知らない場合である。意識がもうろうとしていた、判断力のない精神障害者や幼児や痴呆老人でもいいだろう。でもこれはクイズ番組である。そして著者も評者も、普通の人が殺人を犯したとしているのだから、こうした前提は成立しないだろう。

 死が日常的であるような環境下でのテレビ番組だったのなら話は別である。誰もが日常的に人を殺すような場面が許されている国家があって、殺人など日常茶飯事であるような状況でならこのようなゲームの成立する余地はあるかも知れない。ただそれとてもそうした考えはスイッチを押す側の論理であって、スイッチを押されて殺される側が、自分の死を事前に理解し納得しているとは私にはとうてい思えないから、被験者から回答者の死について質問されたとたんに、実験の意義は霧散してしまうだろう。

 さて仮に書評に書いてあるとおり、被験者がスイッチを押したならば回答者が死ぬ可能性があることを事前に知らされており、その事実を信じかつ理解していたとするなら、その被験者は殺人の意図をもってスイッチを押したことになる。だとするなら私は、その被験者にゲームの進行の一つとしてもう一つこんな場面を作りたい。ゲームの主催者は、ドッキリカメラみたいな構成でも構わないが突然その場に制服警官(もちろんゲームである)を飛び込ませて、殺人容疑もしくは殺人の現行犯として逮捕させるのである。そうしたとき、逮捕された被験者はどこまで回答者の死の確実性とスイッチを押すことの関連性を知っていたかを答えるだろうか。恐らく殺人についての疑惑に素直に従うことはないだろう。果たして彼らはどんな言い訳をするだろうか。

 「本当に死ぬとは思わなかった」、もしこう話すのなら、この実験には意味がないことになる。別の実験としての意味はともかく、少なくとも書評に書かれているような結果を実験の成果として評価できるかと言えば無理である。死ぬとは思わなかったのだから、死のスイッチを押したことと回答者が死んだこととは無関係になってしまうからである。

 「死んでも罪に問われることはないと聞いていた」、この回答もまた実験の失敗を意味している。少なくともこの著作のような結論をこの実験結果から得ることはできないからである。それは別に回答者が人間である必要などない。ハムスターなどを使って、ピーナッツを食べたらショックのスイッチ、水を飲んだらショックなしのスイッチを押すみたいな実験となんにも違わないからである。すくなくとも評者がこの著作を読んで「恐ろしさはひとしおだ」と書いたのは、実験結果が人の死であったからだと思うからである。
 しかもこの回答には何らかの「死への免責特権」みたいなものが予め与えられていた可能性が強いこともあげられるだろうから、この点でも実験は意味を持たないことになる。

 まだまだ言い訳は考えられないではない。「最初は殺すつもりなどなかったけれど、ゲームに熱中しているうちについ我を忘れてしまいました」と答える者がいるかも知れない。もしかしたらこの答えこそが実験を主催した者の狙いなのかも知れない。「つい我を忘れることで人はどんどん残酷になっていける生き物なのだ」、そうした思いを実験で立証したかったのかも知れない。そして「つい我を忘れる」ような状態は、権力や拷問などによる筆舌に尽くしがたいような場面でなく、単なるゲームのような気軽な環境下でもたやすく起きるのだと言いたいのかも知れない。

 でも私にはこの実験が、実験者の思惑通りに行われたとはどうしても思えないのである。「400ボルトの電圧をかけることで人は死ぬ」ことと、「あなたがスイッチを押すことによって400ポルトの電圧が回答者にかかる」こととは、どこか著者や評者は関連付けているけれど、私にはどうしても結びついていないように思えてならないのである。

 もちろん死への意識についても民族により違いはあることだろう。この本の著者はフランス人なので、恐らくこの実験もフランスで行われたのだろう。フランス人の死生観と日本人のそれとではまるで違うだろうから、この実験結果を日本にそのまま適用することなどできないかも知れない。そうした民族によって死生観が異なるだろうことに異論を唱えようとは思わない。そうした違いは命に対する考え方の違い、ゲームにしろ命を対象としたスイッチを押すという契約に対する立ち位置の違いであるかも知れないからである。
 でもそこに民族としての違いがあるのなら、その違いを何らかの説明やフィルターを使ってフランス人の意識→日本人の意識へと変換するのでなければ、「恐ろしさはひとしおだ」とは言えないのでないだろうか。

 そう思う一方で、評者が「恐ろしさはひとしおだ」と断定しているということは、そうした民族の違いを超えてもなお「恐ろしい」と思ったからそう評釈したのではないかと思うのである。そして私もこのゲームの進行に民族による死生観の違いは関係ないのではないかと思っている。

 確かに民族による死生観の違いには大きいものがある。日本人が当たり前と感じている火葬に強烈な嫌悪感を示す民族があったり、また遺体の一部を食べる習慣などについて私たちはまるで理解できないことも事実である(別稿「死者を送るということ」参照)。またアフリカや中東などの独裁国家では反対勢力に対して人間狩りみたいなことが行われていることも事実である。人間狩りがゲームとなっている映画やテレビドラマも見たことがあるから、人の死をゲームとして取り上げることが想像できないではない。でもそれが公衆が楽しむためのテレビ番組におけるゲームで、実際に「人の死」が対象とされるようなことが民族の違いがあったにしても起きることなど考えられないと思うからである。

 だからこそこのゲーム(実験)には、表面に表われてこない隠された仕掛けがどこかに施されているように思えてならないのである。実験結果を真っ向から否定してしまうことになるとは思うけれど、私には被験者が「相手が死ぬことを理解し、もしくは場合によっては死んだって構わないとの思いでスイッチを押した」のだとはどうしても思えないのである。隠された安全弁がどこかにある、どこかで暗黙の安全装置の保証がある、ゲームで人が死ぬことなどないとの互いの了解がどこかで成立している、そんな風に頑なに思っているのである。そしてそのことに触れなかった評者の意見は、「そこまでこの著書を読みきっていなかった」のではないかと、そう思えてならないのである。

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                                     2011.11.4    佐々木利夫


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死のテレビ実験(2)