ほんの些細な感触である。こんな言い方をしてしまうと、かつて大宅宗一が言った「一億総白痴化」(最近は国民洗脳装置という名称に進化したらしいが・・・)だの、テレビそのものを指して「デンキ紙芝居」などと表現していた頃を思い出し、時代錯誤そのもののような気のしないでもないけれど、まあそんな歳に私もなったというべきなのかも知れない。なぜなら、社説を読み忘れることはあっても、テレビの番組表をパスしてしまうことなどほとんどないからである。
 そうした日常は、逆に言うと番組表そのものについても一種の儀礼通過みたいな側面を持たせることでもある。私が新聞に目を通すのは毎朝の小一時間くらいなものだから、番組表に費やす時間といっても高が知れている。

 その程度の軽い番組表へのタッチではあるのだが、つい最近午後9時頃の番組を掲載している位置が気になってしまった。朝起きて新聞を読んで7時のNHKのニュースを30分ほど聞き、歯磨き洗顔を終えて朝食、ちょうど始まるNHK朝の連続ドラマとほぼ同時に食べ終えて食器の後片付けをして背広にネクタイ・・・、これで8時半頃に事務所へ向けた「いってまいります」になる。
 事務所にもテレビは置いてあるが、新聞は取っていないので番組表を見ることはなく、録画した映画やドラマを見るか、最近は手持ちのネガフイルムやスライドのマウントをメモリーに落としそれに気に入った楽曲とともにCDに焼きこんで鑑賞するなどが多い。

 テレビの録画がタイムマシンに似ていると以前に書いたことがあるけれど(別項「時間って何だろう」参照)、番組表どおりの時間に見るのは仕事やコマーシャルなども含めて時間に拘束されることになって、どこか敬遠しがちである。そんなこんなで結局録画(最近はもっぱらDVDやブルーレイディスクになる)することが多い。特にテレビがデジタル化してからは、番組表から選択するだけで野球などによる時間延長などを考慮しなくてもすむことから重宝している。

 ところで私が特に録画したいと思う番組はどちらかと言うと映画とかドキュメントなどが多く、そうした番組の放送時間帯は午後9時くらからになることが多い。それで例えば朝刊の番組表を見るときには、番組表を眺めるときも早朝から深夜まで隈なく探すようなことはしない。どちらかと言うと「さて、今日はどんな映画が入るかな」みたいな大雑把な気持ちである。そこで午後9時くらいの見当をつけて番組表へ目を走らせる。
 その走らせる位置がこの頃多少ずれてきたことに気づいたのである。私がなんとなく自身で了解していた午後9時台の位置と最近の新聞編集での位置が変ってきたのかどうか確認したわけではない。だが午後9時が、私の意識する位置よりも少し上に感じてきたのである。

 もちろん新聞最終面に一面全部を使っている番組表だから、一番左欄には時間帯が表示してある。だからそこを見てから自分の望む放送局へと視線を移してゆけばそれで足りることではある。でもこれまでの私の習慣はそうではなかったらしく、直接的に番組へと視線が移ってしまう。そうしたときに、目的とする映画やドラマの時間帯とずれてくるのである。

 それは恐らく私の意識は私の過ごす時間帯に沿って目線を移しているのであり、そうした私の思惑とは違う基準(例えば時系列に全部の番組を表示する)によって編成されているからなのだろう。だから例えば朝の番組が午前5時ころから始まり、その日の終わりの番組が翌日になろうとも午前2時、3時まで続くという矛盾も特に異論はない。つまり今日は12時(午前0時)に終わるのではなく、更に数時間延長してしまうことになろうとも、それが変だとは言うまい。でも確実に言えることはそれは私の時間帯とは違うのである。

 私の生活はきわめて大雑把ながら午後10時頃に床に就いて小一時間ほど本を読み、午前5時過ぎに目覚めるのが習慣である。世の中の人々が全部私の時間帯と似たような形で過ごしていると感じることの方が間違いだろう。人工衛星から夜の地球の撮影した画像を見たことがある。日本は(世界のあちこちもそうだったけれど)日本地図そのままに光り輝いていた。もちろん山のてっぺんまで光っていたわけではないだろうが、それでも海岸線に沿って日本の輪郭が欠けることなく描かれていた姿を覚えている。撮影の時間帯が夜間もなくなのか真夜中なのかまでは記憶にないけれど、工場は24時間稼動しコンビニもスーパーも深夜営業が当たり前になっている。夜遅くまで営業している飲食店を不夜城などと呼んだこと自体が死語になっているくらい、眠らない日本では今では当たり前になっている。

 だから24時間、人はいつも起きているということであろ。だとすればテレビもまた24時間視聴者がいるという前提で放送しているのであり、視聴者がいるかぎり番組表もまたそれに習うのは必然である。日本中の不夜城化に伴ってテレビの番組表はどんどん長くなり、いつしか24時間べったりの表示にまで届くことになる。
 そうした時間の観念が私が過ごしている時間の流れと食い違ってきた、それが最近気になった9時台の番組表の位置の変化として現れてきたのかも知れない。

 いやいやもしかしたらそれは私の錯覚かも知れない。日本の不夜城化は最近に始まったことではない。だから仮に番組表の表示の長さが変化したとしても、それは最近の出来事とは限らないからである。だとすれば私の感じている午後9時の位置の変化は、現実に動いている世の中の時間の流れに、自分の感覚が合わせられなくなっていることの証左かも知れない。

 こんなことを言うとまさに70を超えた高齢者の時代錯誤と笑われそうだが、ふと「朝は朝星、夜は夜星」という言葉を思い出す。恐らく私が生まれるよりも以前の話であり、電灯がないため日の出から日没までの明るい時間帯を働く時間として決めざるを得なかった農耕時代の言葉であろう。一日を日の出と共に起き、日没と共に就寝するような流れとして理解する感覚は、今となってはお伽噺でしか知ることはないけれど、でもこの言葉はどこかで「それが本当の人生だ」みたいな意味を私に密かに囁いているのである。人が生物としてこの世に存在を始めた悠久ともいえる長い進化の過程を、私たちは時間をそうした感覚で捉え続けてきたのではなかっただろうか。



                                     2011.4.16    佐々木利夫


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テレビ番組表と私の時計