ニュートンは時間を絶対不変のものとして定義した。そのことは速度であるとか時刻などの基準として私たちの日常生活でも当然のこととして理解されていたし、そもそも時間の不変性を疑うことなど金輪際なかったと言ってもいいだろう。そんな揺るぎない思いがある日、アインシュタインが記した小さな方程式によってあまりにもあっさりと覆された(別稿「アインシュタインになれなかった少年」、「時の旅人」参照)。
 もちろんそれは「光速度に近い状態における現象」と言う、日常的にはあり得ないような架空とも言うべき状況下での現象を示す方程式ではあったけれど、私が知った初めての「揺れる時間」の入り口でもあった。

 ただそうした時間の揺らぎは、現代では私たちの日常にも入り込んできているような気がしている。それはアインシュタインの描いた世界とはまるで異なっているけれど、人は時に時間を具体的にコントロールしているのではないだろうかと思わせるのに十分な現象であった。私が感じ始めた時間のコントロールの記憶は今から20年ほど前に遡る。
 もちろん「時間のコントロール」と言ったところで、例えば朝起きて夜寝るまでの時間を遊びに使うか勉強に使うかと言うような使い道の長短を自分で決めると言う意味でのコントロールではない。時間そのものをある意味自分の意思で自在に移動・伸縮できる、と言う意味でのコントロールである。

 と言っても別にタイムマシンなどと言ったSFじみた話ではない。私がこうした感覚を最初に意識したのはビデオデッキを手にしたときであった。もちろんそれは単に「テレビ番組を録画することができる機器」と言うだけの装置でしかない。だがテレビ番組を番組表と呼ばれる時間割に拘束されることなく、私の好む任意の時間帯に鑑賞できるという現実は、どこかとても不思議な気持ちを抱かせたのであった。
 それまで時刻表と言うのは例えば列車や飛行機などの運行ダイヤはもとより、ラジオやテレビの番組表にしても、受け手側である私たち、つまり利用する側の個人的な意思を一切受け付けないという形で君臨していた。もちろん災害や事故などでダイヤの乱れがあったり、野球やサッカーの試合時間が延びたりすることなどで、乗り換えの便宜や試合を最後まで見たい人のために決められた時間割を変更する場合がないわけではない。だがそれとても発信側が受け手の意思を忖度しての変更であって、利用者個々人の意思による好みによる変更ではない。

 ところがビデオの存在はこうした常識を、少なくともテレビ放送という分野に関してはあっさりと覆したのである。もちろん放送時間そのものの決定権が受信者に委ねられることはまるでなかった。たがビデオを手に入れることで、指定された時刻にテレビの前に鎮座して番組を見るなければならないという拘束からは完全に解放されることなったのである。

 もちろんビデオの存在が利便性を与えただけではないだろう。知人の一人に数年前からある特定の番組に凝っている者がいて、毎週欠かさずに録画している。ところが「録画した」という安心感のせいからかも知れないし、それにどうしても放送された順番に見なければならないので過去の録画テープを残したまま当日の放送を見ても連続性が途切れてしまうことや、それにけっこう忙しくで「その内にゆっくり全巻を一気に・・・」との思いもあったのだろう、既に放映が終わってしまったにもかかわらず未だにテープの山として残っているのだそうである。しかもそうしたテープが数年分、数話分もあるなどと聞くと、放送時間をコントロールするなどと言うレベルを超えて今や鑑賞のために新たな時間が必要になると言った逆の弊害をさへもたらされているような気がしている。

 こうした特殊なケースは別にしても、テレビ番組のビデオ録画は決められた時間帯の鑑賞を任意の別の時間帯に移すという新たな時間のコントロールをその個人に委ねる結果になったのである。
 しかも、しかもである。その装置には早送りという、とてつもない機能が最初から組み込まれていたのである。そうした機能はもっぱら番組の中途に入るコマーシャル飛ばしに利用することが多いけれど、番組の頭出しや冗漫な部分を早送りで再生することなども含めて、鑑賞時間のかなりの部分を節約することができるのである。

 つまりテレビ番組を録画するビデオデッキとは、録画した番組の鑑賞を任意の時間帯に移動できる装置であると同時に、番組そのものを短縮することができると言う二つの意味での「時間のコントロール」を実現してくれると言うとんでもないマシーンだったのである。しかも、途中まで見て残りはまた明日などという身勝手な鑑賞方法も含めてである・・・。
 そうした機能は、今や製作者がインターネットを利用したオンデマンド配信(多くは有料だが、特定の番組を個人的に配信を受けて任意に鑑賞できるシステム)へと引き継がれつつある。

 時間のずれには他にも身近に実感できるものがある。海外との通信である。アメリカとの通信衛星による中継が始めてなされたのはケネディ大統領暗殺事件であまりにも有名だが(別稿「私のキューバ危機」参照)、今やニュースに限らず個人的な情報などもインターネットを通じて海外とオンラインで接続されることは当たり前になった。人工衛星を使った無線システムによっているのか、それとも海底光ケーブルによる有線による通信なのか私にはきちんと理解できていないけれど、それでも中継と称するニュース番組などで海外派遣員との応答が数秒間ずれるような現象は日常的に珍しいことではない。

 それどころではない。NHKのテレビ放送からいつの間にか時報が消えてしまった。毎時ではなかったとは思うけれど、少なくとも総合テレビでは午前と午後の7時、それに正午のニュースの前には必ず「ピッ、ピッ、ピッ、ポーン」という音声と時計の画像が必ず映し出されていたはずである。教育テレビではまだ正午だけは残っているようだが、その時報がいつの間にか消えてしまっている。

 どうやらその原因はあと2年後に完全移行されるテレビ放送のデジタル化にあるようだ。なんでもデジタル化によって、送信側も受信側も信号の内部処理が複雑になり、いわゆる瞬時に送信・再生することが出来なくなってきて時報の正確性が担保できなくなったことにあるらしいのである。もちろんアナログ時代だって撮影した映像は放送局の内部の機械の中を通り、アンテナから地方へ送信され、それを受信して再生するのだから、いかに光速度で伝わる電波にしたところで理論的にタイムラグのあることは当然である。ただ、それが今までは少なくとも人間の感覚では「送信と受信との間にずれは感じない」程度に違和感はなかったと言うことなのであろう。それがデジタル化によって違和感が残るほどの誤差というかタイムラグが発生することになったと言うことである。
 「光や電波は瞬間につながる」と言うのは、今では私たちの感覚の上でも存在がしにくくなってきたと言うことなのかも知れない。

 まあそんな話しは宇宙では当たり前のことであり、宇宙の果てまで何百億光年なんて話は、まさに光の速度でも数百億年かかること、つまり今見ている星空は数十万年、数億年前の姿でしかないことを意味しているのだから、デジタル放送における数秒のタイムラグなど小さい、小さいと言うべきなのかも知れない。

 こんなSF小説を読んだ記憶がある。宇宙規模の巨大ネットワークコンピューターが完成した。万能マシンの実現である。これによって人類の持つ様々な問題はすべて解決するはずであった。今日はそのマシンの記念すべき開通式の当日である。世界中が見守る中、その巨大ネットワークのスイッチが入れられた。世界中の夢が実現する瞬間である。だがなぜかコンピューターはウンともスンとも言わず沈黙をつづけたままである。原因は何か。光や電波にも一定の速度が必要であったと言うことである。宇宙を結ぶコンピュータがそれぞれに情報を交換し処理し応答していくためには、「宇宙を駆け巡る通信」が不可欠であり、その通信に要する時間もまた数光年、数十光年を必要としたというのである。通信を瞬間と誤解した人間の愚かさを示した話、それ以前にマシンを万能と過信した人類の愚かさを皮肉った話である。

 時間とは一体何なのだろうか。忙しいとか暇だとか、そうした身近な場面から、宇宙へと時間は途方もない広がりを持っている。時間には始まりがあったのか、やがて終わりがくるのか。それは人が決めるものではないだろう。人類がこの世に存在を始める前から時間が存在していたことくらい誰にだって想像できる。我々の宇宙は137億年前の「ビッグ・バン」と呼ばれる巨大な爆発から始まったとされている。
 だがそれより以前のこと、つまりビッグ・バンが何から始まったのかについてはほとんど説明されていない。何が始まりなのだろうか。「無」そのものが始まりだとするなら、時間もそこから始まったのだろうか。始まり以前とは存在そのものの不存在だったのだろうか。そうした不存在とは時間を意識する存在そのものの否定てもあるのだから、つまりは「時間そのものの存在しない状態」の存在を考えること自体が許されないのだろうか。「なんにもない」とは一体なんなのだろうか。

 しかも時間は連続しているのか、つまり時間はいくらでも細かく分割できるのかについても分かっていないようである。そうした曖昧模糊とした時間の中で人は特定の個人に属する時間の一つを小さく区切り、それを年齢と呼ぶことにした。生まれ、老い、そして終わりを告げる、そうした流れもまた時間の一つの捉え方であろう。それは137億年とは比すべくもない断面ではあるけれど、その断面の中に人は個人として様々な思いを詰め込むことができ、そうした時間の中で人は自由に遊ぶことができるのである。



                                     2009.11.25    佐々木利夫


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時間って何だろう