テレビドラマなのだから、そんなに目くじら立てる必要などないだろうと思わないではない。でもテレビドラマでは推理ものというか刑事もの探偵ものみたいな犯人探しの物語にけっこうな人気があり、その展開がどのドラマでも共通しているようで、どこか気になってきているのである。しかもこの頃はやたらと再放送の機会も増えてきているように思えるのでなお更である。言っちゃなんだけれど、テレビは朝から晩まで犯人を追いつめる警察や検事や弁護士、そして素人探偵などなどを主人公にした物語をくり返し放送していることになる。もちろんそれはあくまでドラマであって、現実の事件や捜査などを正確に反映している保証はない。むしろ現実とは異なる架空の物語であると考えたほうがより正しいと言えるかも知れないだろう。それよりも何よりも、そんなに気になるのならテレビのスイッチを切って視聴率低下に協力してしまえばすべて解決することを知らないではない。

 ただ私を含む多くの視聴者が、現実の刑事事件や犯人探しに関わることなどまずないと言っていいから、たとえ創作された単なる物語だと理解していても、刑事部屋での取調べや執拗な探偵の追跡などのドラマの展開と現実との混同が起きることだってないとは言えないのではないかと思ったのである。これと似たようなテーマについてはすでに書いたことがあるけれど(別稿「ホントのことを言え」参照)、こうしたテレビドラマを見ていると、その構成が必ずと言ってもいいほど「事実の証明」から離れて「可能性の証明」に終始し、それに続く「自白の強要」に偏っているように思えてくるのがどうにも我慢ならないのである。

 一番単純な例としてアリバイ崩しを取り上げてみよう。犯行時刻に容疑者が犯行現場以外の場所にいたことを容疑者自身が主張することからドラマは始まる。そしてそのアリバイを善意の知人や事件と無関係な第三者、時には公共交通機関の時刻表などが証明すると言う設定である。このアリバイを崩すべく素人探偵やぼんくら刑事などが、時に観光地めぐりの温泉や名所旧跡を舞台に活躍する、これがこうしたドラマの定番である。時間枠が決まっているのだから、どうしたって起承転結を要領よくまとめなければならないことはよく分かる。だから場合によっては断崖絶壁から飛び降りて自らの罪の清算をしようとする犯人を説得して、ドラマに欠けていた犯行の動機や生い立ちの苦しさ、アリバイ作りの苦心談を長々と自白させることになるのだろう。

 そうした自白を嘘だと言いたいのではない。たとえ現実にはありそうにもない空想じみた自白であったとしても、脚本がそうなっていることまで、そして作者が苦労して作り上げたドラマであることまで否定するつもりもない。でも、その犯人の目もくらむような断崖や風光明媚な海辺での自白にいたるまでの展開がどうにも腑に落ちないのである。それは例えばアリバイ崩しでいうなら、アリバイ崩しを事実として証明しているケースが極めてまれだからである。

 アリバイを巡るトリックは推理小説の一つの醍醐味でもあろう。作者自らが作り上げたアリバイを、対決する名探偵や刑事がどんな方法で崩していくか、そうした犯人との駆け引きの中に私たちは物語へと引き込まれていく。そのことに何の異論もない。だがテレビで見るドラマは決してこうした展開をしない。

 先に掲げたアリバイ崩しでこれを見てみよう。時刻表を使ったアリバイの証明は今でも盛んに使われている。容疑者はある特急列車に乗ったと主張し、それを見送った証人がいる。そしてご丁寧にも終着駅には出迎えの証人までいて、これで容疑者はこの列車内に閉じ込められていたことになって犯行時刻での犯行は不可能、つまりアリバイ成立である。
 これを崩そうとする犯人探し側の追求や捜査がドラマのメインとなる筋立てである。平行して走るもう一本の列車の存在、飛行機を使った時間差、時刻表には掲載されていない貨物や団体客専用の列車の存在、果ては容疑者を水泳選手、モーターボートやハングライダーの操縦に長けた者などにまで仕立てて、それこそ完璧に作られたアリバイを少しずつ崩していく。

 私はそうしたアリバイ崩しの手法そのものを否定するものではない。アリバイが架空のものであるとの疑いがあるのなら、それを崩すことこそが捜査の基本であり、またそれなくしては捜査ものものの杜撰さを指摘されても仕方がないだろうと思うからである。
 たがドラマは何故かここで終わってしまうのが気になるのである。アリバイ崩しの可能性を時刻表などから指摘されたことで、容疑者があっさりと犯行を自供し刑事や弁護士や探偵の情にからめた説得に屈して、その場に泣き崩れて犯罪の全容を自白してしまうからである。そこへパトカーがサイレンを鳴らして到着し、物語は大団円を迎えることになる。

 私が変だと思うのは、こうしたアリバイ崩しの証明が単に時刻表の組み合わせや、船舶を運転できるというその能力があることの証明だけで終わってしまうことである。
 X地点で殺人が起きた。A地点から乗車した容疑者は、様々なトリックを用いてB地点から船に乗り、C地点から飛行機でXまで行って人を殺す。そこからハイヤーでD地点まで行ってそこから最初に乗車した列車に戻り、なにくわぬ顔で終点の出迎え人と顔を合わす。つまり犯行は可能であって、容疑者の主張するA地点から終点まで同じ列車に乗っていたとするアリバイは崩れることになったと名探偵は自信満々で証明する。

 だがこういたストーリーの欠点は、「犯行が可能である」ことしか証明されていないことにある。容疑者は確かにこうしたアリバイ証明のトリックを使ったのかも知れない。でもそのトリックを使うことによって犯行が可能であるかも知れないけれど、そうした可能性と現実に「犯行した」こととは無関係であるはずである。

 ドラマだからいいかげんでいい、と言ってはいけないと思う。「犯罪を実行する時間的余裕が理論的にあり得る」ことの証明と、その犯罪がその容疑者によって「実際に行われた」ことや容疑者のアリバイが崩れた」こととはまるで違うからである。もちろんそんなことで犯人にされてしまうことなど、決してあってはならないからである。
 「事実の認定は、証拠による」(刑事訴訟法317条)は、あらゆる認定の基本にあるはずである。その可能性にどんな蓋然性があったとしても、それはあくまで可能性であって決して「事実」にはなり得ないのである。

 こうした思いは私の空想を一層刺激する。なんたって、仲間との飲み会など僅かな例外を除いて私の一日はこの事務所でたった一人で過ごすことが多い。つまり私にとって仮に嘘にしろアリバイを証明する手段がまったくと言ってもいいほどないのである。ある日突然に警察や探偵がやって来て、○月○日のアリバイを求められたとしても、私には「事務所に一人で本を読んでました」くらいしか答えられないからである。つまりはアリバイの皆無である。私はどうしたら、私の無実を証明できるのだろうか。

 そしてこうした思いもまたテレビドラマからの悪影響を受けていることが分かる。なぜならアリバイとは、被疑者が自らの潔白のために立証しなければならないことではないからである。もちろんアリバイが成立したからといって、金で殺し屋を雇ったことまで否定できるものではない。だが少なくとも、アリバイの成立している者が、自らが犯行に手を下していないことだけは証明できることになる。だがだからと言ってアリバイの成立しないことが犯罪を犯したことの証明になるわけでは決してないはずである。それは単に「アリバイが不明」なだけであって、警察や検察は、容疑者が犯罪を犯した事実を証拠によって証明しなければならないのである。

 ところがテレビドラマの多くは、被疑者にアリバイの立証を求めるストーリーが余りにも多すぎる。そしてその立証ができないことを根拠にして、逆に犯罪を犯したことの自白を容疑者に強要するのである。中には容疑者に同情して、警察官や弁護士などの主人公が自らの努力でアリバイ証人を探すような組み立てまでするようなドラマまである。そしてそのアリバイ証人がなんらかの事情で名乗り出たくないと主張するとき、ご丁寧もその主人公は「あなたの証言がないと、無実の人が刑務所に入れられてしまうのです」と脅迫まがいに迫る始末である。これでは警察や検事は、誰でもいいから容疑者を捕まえてきて、「無実ならお前が証明せよ」と迫っているのと同じである。

 そんな杜撰な司法制度などないとは思うけれど、繰り返されるテレビドラマの構成は、一向にこうした杜撰さから離れようとしない。「事実の認定」と「適正手続き」の要請が、どこまで日本の刑事ドラマに通じるのかは疑問ではあるけれど、それでも余りにもチャチなドラマの作り方に、そしてそれでもけっこう人気があるらしいくり返しに、視聴者も含めて日本そのものがどこか変になっているのではないかと思い始めている。



                                     2011.8.30    佐々木利夫


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