更にこの新聞記事はこうした国際放射線防護委員会(ICRP)の見解に続けて、福島第一原発事故によるがんリスクの予測として、年間の被曝線量を100ミリシーベルト以下の5〜10ミリシーベルトでも、該当する調査対象人口29万2千人、被曝によって発生する固形がん件数150件、被曝によって高まるがんリスク0.2%との表を示している(ロシア保健・社会開発省医学放射線研究所のイワノフ副所長の提供データ)。
そして記事はまだ続く。イギリスのマンスフィールド大のリチャード・ウェークフェード客員教授の談話として「・・・これだけ超低線量では、喫煙など別の発ガン因子の影響を受けている大人では見分けが難しいが、子どもの白血病ではリスクの評価が期待できる。予備的な解析段階だが、小児白血病の約15%は、住む地域の自然からの被曝線量の多さが原因の可能性がある」を掲げている。
こうした意見がどの程度まで信用できるのかについて、私にはまったく知識がない。「大人では見分けが難しい」との意見だって、大人が安全であることを保障しているわけではないことくらいしか理解できていないからである。国際的に検証されていない学者の勝手な妄想だとする意見だってあるかも知れない。それでもこうした記事から分かってくるのは、ゼロリスクへの思いとは果てしなく遠いものだということである。
私たちが風評に惑わされていると言われながらも放射能の影響に特別な思いを抱いているのは、単に広島・長崎の唯一の被爆国としての抜けがたい記憶があるからだけではない。放射能が及ぼすであろう我が身や家族に対する「がんリスク」であり、更には自身の被曝によって将来の子孫に及ぶかも知れない「がんや遺伝子障害へのリスク」などの現実的な恐れが気がかりだからある。これらのリスクに対して、現在の医療技術がどこまで対応できているのか私は知識がない。しかし、それほど熱心に調べたわけではないけれど、新聞記事などで私の知る限り被曝による障害に対しする治療などの現状は、学説や研究なども含めて無防備状態にあるような気がしている。
がん治療が日進月歩で進んでいることは認めよう。万能細胞の研究なども進んでいるから遺伝子治療が現実のものとなるのもそれほど遠くないかも知れない。だからがん告知を死亡宣告みたいに感じる時代は過ぎつつあることもとりあえず理解できているつもりである。それでもがんの死亡率は死因の筆頭であり、多くの人が完治よりは死の恐れへのイメージを強く持っているのではないだろうか。だからまだまだがんは、助かるかも知れないけれど死ぬかも知れない病なのである。5年生存率と言ったところでそれは5年生き延びたことを示す単なる割合を示しているだけで、完治の宣言ではない。それほどの意味しか持ち合わせていない統計数値が、どれほど「がん告知された者」に対して非情な意味を持っているか、改めてここで記すこともないだろう。
ましてや遺伝子の影響を排除できるような研究などについては、まるで及んでいないのではないだろうか。遺伝的にどんな障害が起きるのかきちんと分かっているわけではないけれど、それを治療することなど少なくとも現在の医学では不可能であるような気がしている。
放射能とはここまでの危険を持つ因子なのであり、しかもその影響は目に見えないままに体内に累積していくのである。可能性にしか過ぎないけれど、累積される被曝とは場合によっては死を覚悟しなければならないリスクであり、我が身我が子孫に予想もつかない将来に突如として、それも予想もつかないような事態を引き起こす時限爆弾を埋め込む可能性を孕ませたリスクなのである。下痢をして、2〜3日入院すれば完全に治りますみたいな病気とはまるで意味が違うのである。
それにもかかわらず前段の「
ゼロリスク願望は独善か」の冒頭で引用した投稿の評論家は、こうしたリスクに対して「感染リスクを社会全体が薄く引き受けるべきだ」と言うのである。そこまでの覚悟を持つほどにも、人は放射能のリスクを引き受けるべきだと彼は本当に思っているのだろうか。絆創膏を貼って、2〜3日で完治するような病気なら、場合によってはそうしたリスクを引き受けてもいいだろうと思わないでもない。そして一方で、そんな軽度な状況にだって、果たして人はどこまでリスクを引き受けられるだろうかと疑問にも思うのである。
先月末(9月30日)に、政府の原子力災害対策本部が避難準備区域の指定解除の宣言をした。破壊した原子炉はとりあえず安定はしているけれど、放射能は依然放出され続けているしこの区域の放射能値が下がったわけではない。それでも宣言を聞いた住民の反応は複雑である。帰りたい気持ちは誰よりも強いだろうけれど、「絶対安全と言われるまで帰れないよね」、「庭には出ない、草むらや側溝には近づかない」、「指定を解除したからと言って人は戻らない、除染が先、順序が逆だ」などの声が圧倒的である。
もちろんこうした住民の声に自己矛盾のあることは自明である。一方で「安全基準を満たしていると保証されているのにもかかわらず、福島産だというだけで食品や観光などで差別するのはけしからん」と言っておきながら、同じ口で「絶対安全でなければ、少しでも不安があるうちは戻れない」と言っているからである。安全宣言とは理屈の上ではリスクゼロを意味するにもかかわらず、住民の意思はリスクを社会全体が薄く引き受けるべきだと言った投稿者の意見よりも更に低リスクであることのはざまで揺れていることを意味している。
ならば安全になるまで戻らないとのたもう住民の意見は身勝手だろうか。私も身勝手だと思わないではない。それでもそれが人なのだと思うのである。我が身の問題とその問題を社会正義みたいな高みに置くこととは、まるで違う次元にあるのだと思うからである。エゴと言われようが身勝手と非難されようが、それが当たり前の個人としてのその人なのではないかと思う。
そうした思いは汚染された瓦礫や除染した土の処分場問題にまで拡大していっている。政府の方針は、きちんとした処分場を決めないままに、仮置き場を自らの市町村や県内に設置しようとしている。集積される瓦礫などは安全基準値を十分下回っているとの説明にもかかわらず、どこもかしこも持ち込み反対の大合唱である。仮置き場がそのまま最終処分場になってしまうのではないかとの疑問もさることながら、まさに煮ても焼いても消すことのできない放射能の保管、それも数百年にもわたる管理が必要なことが拍車をかけていると言われている。
背景には政争に明け暮れている民主・自民・公明など、政府への不信があることは否めない。つまり「誰が何を言っても信用できない」ことが、あまりにも日本中に拡散してしまっているからである。「どうにかしなければならない」ことははっきりしている。だが、どうにかするためには、その前提として「絶対安全です。300年先まできちんと管理できます」みたいな宣言を、国民がきちんと理解でき信用できる形で示さないことには、この問題は結局宙ぶらりんのままになってしまうのではないだろうか。信用不信と政治の混乱とが粘土をこねるようにぐちゃぐちゃになってしまっているような現状では、どんな言葉も人の心には届かない、そんな気がしてならないのである。
「○○大の△△教授によると、健康に問題ない値だそうです」と新聞にはよく載っている。こんな不確かな一人の教授の意見で人は安心できるだろうか。この程度の言葉だったら、毎日の健康食品や美白化粧品の宣伝や、ガンにも糖尿病にも効きますとの効能をうたった色々な錠剤の宣伝にだって、なんとか博士の写真入りで書かれているのと同じではないか。別に権威が必要だとは思わないけれど、もっと国際的な信頼できる機関の、それも「・・・だそうです」ではなく「安全です」との宣言をはっきりと載せるべきではないだろうか。そんな「・・・だそうです」程度の言葉にゼロリスクを委ねることなど、庶民にはできそうにないのではないかと、つい思ってしまうのである。
前段の「
ゼロリスク願望は独善か」へ戻る
2011.10.5 佐々木利夫
トップページ ひとり言 気まぐれ写真館 詩のページ