「・・・私たちは小さいときから『愛』は尊いと教えられてきた。すべての『愛』は等しく尊いはずだ。ある『愛』は認めるが、この『愛』はだめと差別してよいものだろうか。・・・」(朝日新聞、2012.2.14、わたしの紙面批評、朝日新聞紙面審議会委員、弁護士・ニュースキャスター・女性)

 こんな記事を読んで、あぁこの人も固定化された思いに取り付かれているのではないか、と思ってしまった。彼女のここでの意見は、「芸能界では『おネエ系タレント』といわれる人たちが人気を博している・・・」との発言から始まることからも分かるとおり、性的な少数者(マイノリティ)に対して国民が抱いているであろう差別意識への批判である。

 私は彼女の抱く「性による差別をなくそう」との思いに反対しようと思っているわけではない。性差が社会的に様々な問題を提起していることは、私なりに理解できているつもりである。性差に関する生物学的な知識が興味の発端だったような気がしているけれど、人間だけが性差を持っているわけではないしその性差が特殊なわけでもない。多くの生命が雌雄に分かれている反面、オス・メスが共存する固体がいたり、イチョウなどのように雌雄異株である植物が存在していることなども知らないではない。また、性の決定は受精によって予め決められているのではなく、生育環境の変化や種の保存の必要性の度合いなどによって性そのものが変化することも僅かな知識ではあるが聞いたことがある。
 恐らく細胞分裂によって単純に固体を増殖させる方法よりも、オス・メスの異なる個体の細胞の結合によって種を存続させる手段の方が、一般的に環境の変化に対応し順応していけるとの選択がこうした生物の性差を生んだ原点にあるのだろう。

 そうした選択が、ときに性の混乱を招くことがあったとしても、それを選択の誤りとして異端視することはできないだろう。ただそうした事実への許容や承認を、単に「愛」に求めてしまうのは間違いではないかと私は思ったのである。「愛」が人間固有のものとして最初から固体としての人間に組み込まれているものなのか、もしくは成長や環境や学習などで獲得していくものなのかについて、私はきちんとした理解いるわけではない。固体としての性差がときに混乱してしまうように、「愛」もまた固体と学習の両立から成立しているのかも知れない。そして例えば生物が生まれた子を育てる行動や本能が、いかに母性愛や育児愛のような「愛のかたち」に見えようとも、それは単なる種の保存のための手段であって、実は私たちが抽象的に理解しているような愛ではないのではないかとの疑念も同時に浮かんでくる。

 さてもう一度原点にもどって「愛」を考えてみよう。私たちはこの言葉の中に、私たちが理想的な愛と信じているような意味を付与しがちである。人類愛、家族愛、恋愛などなど、私たちは無意識に「愛」の中に揺るぎない正義や真実を見ようとする。でもこの投稿者の言う「愛は等しく尊いはずだ」としてしまうのは間違いだと思うのである。

 「愛」について私は、以前もここへ書いたことがある(別稿「愛のためのたたかい」参照)。そこで私は、ある人にとっての純愛がいかに崇高なものであったとしても、その愛に引きずられる人や巻き込まれる人にとってはとてつもない迷惑であり拒絶すべき場合だってあるだろうことを書いた。
 祖国愛は崇高かも知れない。国が滅ぶとの危機を前にして、個人の命など取るに足らないことなのだとの信念を私たちはこれまで幾度繰り返してきたことだろうか。民族愛が宗教対立を生み、血を血で洗う抗争が地上に人類が発生して以来止むことなく続いてきたことは証明を必要としないまでの事実である。そんな思いの集まりが、現在でも世界中を混乱させている現実を私たちは忘れることなどできはしない。

 もっと小さくてもいい。若い男女の恋愛を愛と呼びそれに崇高な純愛のイメージを重ねることは正しいことだろうか。ならば不倫の愛は、たとえその愛が当事者同士にとっては世界が滅んでもいいほどであったとしても、滅ぼされる世界の住人にとっても愛なのだと呼んでもいいのだろうか。男が、または女が一方的に相手に寄せる愛もまた、たとえその行為がストーカーと呼ばれようとも真剣な愛であるとの意味では差別してはいけないのだろうか。
 また私たちは例えば「屍体愛」や「死肉愛」であるとか「小児性愛」や「獣愛」などの言葉があることを知っている。これらの言葉だって、人類愛や恋愛などと同じように「愛」が接続した用例である。たったこれだけのことからだって、なんでもかんでも「愛」の文字を接着させさえすれば、その付けられた言葉は純愛と同じ位置にまで高めることができるとする思いの理不尽さを知ってもらえるだろう。

 こんな言い方をすると、それはことさら例外的な用例を持ち出すことで「愛」という言葉が本来持っている誰にも承認されているであろう意味を無理に曲解させようとする誘導だとの批判があるかも知れない。
 でもこの投稿者の意見の背景には、「愛」の文字がつく以上「どんな愛も等しく尊いはずだ」があるのであり、愛の文字がついている以上、等しく尊重されるべきであり差別することは許されないとしているのである。

 つまりここで私が言いたいのは、投稿者の抱くそうした発想は物事の本質を逆に歪めてしまうのではないかということなのである。
 「愛」もまた相対的である。ストーカーの抱いている愛は、例えそれが純愛に見えても片方だけによる独りよがりの身勝手であり、相手にとっては嫌悪であり場合によっては恐怖でしかないのである。信仰に対する愛は、その思いがいかに崇高であろうとも、異なる信仰にとっては自らの信ずる神をないがしろにし、場合によっては破壊しようとする邪教である。

 同性愛もまた同じような道をたどってきた。性差を私たちは長い間、男女における生殖の問題としてのみとらえてきた。生殖は子孫の維持や民族の発展のためのものであり、出産は性差なくては成立しないのが生物学的な仕組みであったからでもある。そうした事実を私たちは結婚であるとか一夫一婦制などのシステムを設けて保護し、時に生殖以外の感情を移入して維持しようとしてきた。そうしたシステムに対して、生物学的にも僅かにしろ同性でありながら恋愛や結婚のようなシステムを構築したいとする思いが、例外にしろ存在していった。そうした例外に対して私たちは、それを一種の間違いとして排除することで対処しようとしてきた。排除することは抹消することと同義であり、そうした例外は最初から存在しなかったのだと思い込もうとした。

 そうした排除への反省が少数者(マイノリティ)の存在を認めること、承認すること、そして互いに尊重すべきものと考えることへとつながっていった。それは性的なマイノリティに限るものではない。多数決の多くは、多数の利益を小数の犠牲を無視することで成立させようとしてきた歴史を持つ。貧困や障害、ときには病気や安全や加齢なども含めて、人はこの世に多くのマイノリティが存在することを知るようになった。そしてそうしたマイノリティにも自らもまた参入する場合のあることを理解し、そうした人たちにも同じような尊厳を認めることが人としての当たり前の思いではないかと気づきだした。

 しかしその気づきの誘引は、決してそうしたマイノリティに「愛」という言葉がついていたからではない。人の尊厳をどのように理解するかはとても難しい問題だとは思うけれど、互いを思いやる心が人が人として共存していく上での基本にあるのではないかと気づきだしたのではないかと思う。人の尊厳の問題は、人が他者の侵入をどこまで許せるかの問題でもある。そしてその「許し」とは一つの境界をもつ概念である。「ここまで、ここを過ぎず」の他者との境界に、どこまで自らが踏み込みこんでいけるのか、そして他者からの踏み込みにどこまで自らを説得できるのかが問われているのかも知れない。

 私たちは余りにも言葉やイデオロギーに惑わされてきた。正義や真理、そして時に常識や慣習に私たちは疑うことなく境界線を設け、自らをその中に押し込めてきた。その押し込めは同時に境界線からはみ出している者の排除でもあった。恐らくそうした排除は、境界内における安全や安心、そして平穏を守り安寧な生活を維持するものだったのかも知れない。つまり「愛」にもまた、排他の論理が満ち満ちているということでもある。
 だからこそ私は「愛」の一言がついているという事実のみをもって、その境界線が消えてしまうべきだとするこの投稿者の意見は間違いだと思うのである。そしてその思いは余りにも錯覚に過ぎ、安易かつ思い込み一辺倒の独善になっているのではないかと密かに感じているのである。


                                     2012.3.10     佐々木利夫


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愛の区別