内容を知らずに録画しておいたこのタイトルの映画を最近再生してみた。私の好きなSFなどを連想するようなタイトルではないし、だからといって恋愛映画などに特別私の興味があったわけでもない。それでもこの映画を録画したのには、このタイトルにどこか引っかかるものがあったからだろう。まあ、録画というのは、再生してみて面白くなければあっさりと削除・消去へと始末してしまえるものだから、タイトルに惹かれたと言ったところでどちらかというと無責任な気まぐれの分野でもあろうか。

 でも録画を見ていて、ふとどこかでこれと同じストーリーの本を読んだことがあるのに気づいた。そしてその感想をエッセイに書いたような気がした。エッセイの発表履歴をめくってみたが、このタイトルによる発表はない。読書履歴を遡ってみて、どうやら一昨年の平成22年に同じタイトルの本を読んだことにたどりついた。ところが本のタイトルであることは分かったものの、その書名からエッセイへのリンクが貼られていない。と言うことは、この本に影響されたエッセイを書いたことはないらしいのである。でもどうも気になる。この映画のようなストーリーに触発されて、ホームページで発表したような気がしてならなかったからである。

 そしてやっとそのエッセイを見つけることができた(別稿「読むこと、読めること」参照)。だがそのエッセイはまったく別のタイトルの本に触発されて書いたものだったのである。私の見た映画のタイトルは「愛を読む人」だったのだが、その内容は私が2年前に読んだ同名の小説からの触発によるものではなく、まったく別のタイトルの本からだったのである。

 私が本で読んだ「愛を読む人」は、パール・アブラハム著の厳格なユダヤ人社会の戒律に反発し、普通のアメリカ人の女の子として生きたいと思う少女の物語だったから、映画とはまるで異なるストーリーである。私が触発されてエッセイに書いた本のタイトルはまるで別のベルンハルト著の「朗読者」であった。ただどうしたことか私はこの二冊をほぼ同時に読んでいて、しかもエッセイの中で私はこの二冊とも引用していたのであった。

 どういうきっかけで私がこの二冊にたどりついたのかまるで記憶にない。最近は手当たり次第に読んでいる本の中で、著者が引用したり参考文献として掲げている本の中から興味に任せて市の図書館ネットで検索して申し込むことが多い。だから引用元が一冊だった場合、その著者が引用している本なのだから、必然的に著者の主張や意思などにつながるものになるだろう。だとするなら似たような傾向の複数の書籍を同時に選ぶようなケースの起こりうることも考えられないではない。

 だが、2年前はまだそうした方法で図書館を利用していなかったような気がしているし、そもそもこの二冊のストーリーに関連するような共通点があるようにも思えない。もしかしたらたまたま書架をぶらぶら眺めていて、どこかタイトルに私が興味を感じそれで同時に借りたのだろうか。

 映画を見終わって、エンディングに映画のタイトルが流れた。真っ黒な画面に白抜きで一言、「THE READER」とあった。この語を朗読者と訳することの適否は置くとしても、「朗読者」と「愛を読む人」の二つのタイトルを並べてみたときに、少なくとも「朗読者」のほうが訳としてふさわしいことくらい英語に疎い私にだってすぐに分かる。むしろ「愛を読む人」は意訳を超えて誤訳であると言ってもいいような気がする。それでもこの映画を日本に紹介しようとした者は、あえて誤訳のほうを選んだ。

 この二冊の本の概要は先に掲げた私のエッセイの中で触れているから、ここで改めて書くことはしない。原作の「朗読者」と映画「愛を読む人」の背後にあるナチスの影や、自らの愛や命と引き換えにまでして守ろうとした文盲であることの事実、そうした思いを私は必ずしもきちんと理解できているわけではない。もちろん言葉を知っていることや話せることと、文字を知っていることとはまるで別であることを知らないではない。だがそれでもこの物語は私たちに文字とは何なのか、読めるとは何なのか、そしてそうした事実を通じて愛とは何か、生きるとは何かを少しずつ伝えてくれているような気がしてくる。


                                     2012.11.9     佐々木利夫


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