2011.3.11の東日本大震災、そしてそれに続く福島第一原発の事故、その日から一年が経とうとしている。その日私は、いつもと同じように事務所でひとりで過ごしていた。地震の揺れというのはどんな場合でも奇妙な不安感を与えるものだが、このときの揺れはとても長く続き室内の本や備品などに影響はなかったものの、ただただ不安に身動きできないでいた記憶がよみがえってくる。そしてそれから約1時間くらい経ってからのテレビは、まるで特撮映画のような現実とは思えない映像を伝えだしたのであった。

 それから一年が経った。少しづつ復興へと向う姿が見えないではないけれど、行方不明者はいまだ数千人を数え、26万人が仮住まいでの避難生活を余儀なくされているとの報道もある(2012.3.5、朝日新聞)。そしてそれに追い討ちをかけているのが原発からの放射能であり、その影響は単に原発からの近隣地域に限らず流通を通じて日本中に拡大し、更には国際的な影響にまで及んでいる。

 原発事故に関してはこれまで何度もここへ書いてきた。もう書くことがなくなったと思うほどにも繰り返してきた。それでも「安全」に対する意識が人びとの心に浸透していない現状は、一年を経過してもまるで変わっていないように思える。政府は放射能レベルの基準を発表し、それ以下の値にある土壌や作物などを安全と宣言している。だがその安全が国民の心に納得として届いていないことを、政府も自治体もきちんと理解しているのだろうか。単に基準を示しました、基準値以下のものに不安を抱くのは風評に惑わされているからです、と言い募るだけで事足りると考えているのではないだろうか。

 確かに政府以外でも「基準値以下なのだから安全を信じる」と言っている人びとの声が聞こえないではない。でもその声は、どこかそのことで利益を得る側の一方的な声でしかないように思えてならない。基準値以下なのだから安心してこの米を食えと言う。でもそれはその米を販売している商店や生産している農家の声だけではないのか。安全だからこの魚は食べても大丈夫だと言う。でもそれはその魚を扱う漁協や漁師の声だけではないのか。放射能を含んだ瓦礫の処理が進まない。焼却しても基準値以下の灰しか出てこないのだから全国で瓦礫の処理を引き受けて欲しいと言う。だがそれは瓦礫が山積みになってその処理に困っている地域の自治体や住民、そしてその声に押されて窮地に追い込まれている政府の声だけではないのか。

 私は「基準値以下は安全」との言葉がきちんと国民の心に届かない限り、いくら政府や地元や生産者などが声を張り上げても、現在の状況は変わっていかないのではないかと思っている。
 確かに基準値というのはある種の許容範囲でしかないだろう。海水浴場として適地かどうかの検査をする。恐らく海水に含まれる大腸菌の数や透明度などがある数値を上回っていないことが判定基準になっているのだろう。そしてその数値は決してゼロではないだろう。例えば100まではOK、それを超えたら海水浴場として不適を基準とする。そのとき80の測定値が安全かと問われるなら、絶対という条件を付すならば答えはノーだろう。それでも検査機関は海水浴OKを出すだろうし、その事実を知りながらでも私たちはその海で泳ぐかも知れない。

 だとすれば大腸菌の基準も放射能レベルの基準も、意味としては同じではないかと言うかも知れない。水道水だってそうである。どんな検査項目があるのかきちんと理解しているわけではないけれど、だからと言って無菌で雑物の混入がゼロであるような蒸留水が給水されているわけではない。恐らく「安全を判定するための各種成分の検出が基準値以下である水」は飲用適として蛇口から流れてくるのだろう。だから私たちの住んでいる世界は、こうしたある種の許容範囲を持った基準によってコントロールされ、そうした中で私たちも生活しているのかも知れない。

 ただ私たちがそれを承認しているは、その基準なり検査システムについて経験則からきたある種の信頼を置いているからだと思うのである。海水浴に行っても体に異常が生じない現実、水道の水を飲んでも下痢をすることはないという事実などなど、そうした信頼は自らの経験や家族や友人や近隣などから伝えられてきた事実などから積み重ねられていくものなのだろう。

 そしてもう一つ、決定的な経験や事実への信頼の根拠がある。それはリスクの予測が可能であって、その予測が外れても結果が自分にとって許容できる範囲内のものであると知っているからである。消費期限を過ぎた食品を数日のことだからと食べてしまうか、それとも廃棄してしまうかはそれぞれ人により異なるだろう。でも食べる決定をしたその人は、多分大丈夫だろうと自らに言い聞かせ、仮に何らかの不都合が生じても恐らく軽い下痢ですむか、最悪の場合でも病院で診察を受けることで完治する程度の症状ですむだろうとの気持ちがあったと思うのである。つまり、最悪の場合でもその不都合は数日で平癒し日常に戻れるだろうこと、しかも命の問題にまでは及ばないだろうとの予測が、どこかに暗黙の了解としてあるからだと思うのである。

 さて、ここで放射能の問題である。私たちはこれについての、少なくとも経験としての知識は広島・長崎を除いてほとんどない。確実な知識としては、放射能が人体にとてつもない影響を与えること、福島原発の崩壊により大量の放射能が地上にばらまかれ風雨によって遠隔地や海へと拡散していったこと、崩壊した原発は現在でも放射能を放出し続けていること、そしてその放射能は目に見えず煮ても焼いても消滅はおろか減らすことさえできず単に半減期という数年、数十年、数百年といった途方もない期間を待つしかないことである。

 そしてこれに加えて放射能の影響は下痢をして数日入院すれば完治するとか、咳止めの薬を飲んで一週間静養すれば大丈夫といった程度の症状ではすまないことが分かっている。それはまさに途方もない影響を私たちに与えるのである。直接被曝による火傷のような症状にとどまらず、ガンの誘発や遺伝子への影響にまで及ぶのである。それは単に「私の体」のみに止まるものではない。子々孫々にまで影響が出る可能性を示唆しているのである。だからその発症は決して許容できるような範囲内のものではないのである。政府は「安全基準」の数値を発表し、それを超える食品や資材などの物流が起こらないようにしていると宣言する。だがここのところに宣言と国民の理解との間に大きな乖離があると私は思っているのである。

 その一つは「本当に安全なのか」の確信が得られていないことである。国際的にも一応の基準値は公表されているが、それはあくまでもソ連のチェルノブイリ原発の崩壊によって得られたデータからの推計値でしかなく、被曝した本人の症状のうちの測定可能、因果関係の認められた範囲に限られているのである。しかもその基準値には一定の幅があって、各国の政治的な配慮で動かすことができるようになっているのである。国民の安全が政府の裁量で左右されるなど、どうして認めることができようか。

 更に「風邪をひいた」、「肝臓が悪くなった」などの症状にどこまで放射能が影響しているかなどは、「因果関係は確かめられなかった」、「タバコによる発がんとの差異は確認できなかった」程度の意味でしか医者も学者も否定できないのであり、「無関係」であることの証明はまだ確立できていないのである。ましてや数世代にわたるわが子、我が孫、我がひ孫にどんな影響がでるのかなどは不明なままなのである。

 もう一つの信頼の欠如は、監督機関などによる安全基準を超えた食品や資材などの流通の監視がどこまで守られるかの保証である。流通商品の全数検査は特定の食品を除いて不可能であることは政府も検査機関も認めている。更に仮に検査がきちんと行われていたとしても、例えば悪意ある業者による意識的な嘘や「そんなことは知らなかった」などの故意や過失による言い訳による検査や監視のすり抜け、予想もしなかった自然現象などによるホットスポットの発生やそこを経由することで汚染された食品の発生などなど、目の前にある食品や製品などがとこまで安全なのかの確信が持てないでいるのである。(続く)


                                      「安全と万が一(2)」へ続きます


                                     2012.3.10     佐々木利夫


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