(承前)「絶対安全」の保証がないこと、「あの時ああしておけば良かった」との後悔は手遅れにしかならないこと、放射能の影響を受けるのは「私のこの体」であり「私に続く子どもや孫」であって、外部・内部被曝も含めて時間の経過とともに被曝は体内に累積されていくこと、放射能には色も臭いもなくその存在は測定器でしか知る方法がないこと、食品ばかりでなく空気にも庭の土など身の回りのすべてに放射能が含まれている可能性があり、そしてその可能性は原発からの距離に大きく影響されること、人体への影響は幼い子どもほど高いと言われていること、放射能を中和したり軽減したりする手段は皆無であり放射能を発生する物質から遠ざかるしか影響を避ける方法がないこと、放射能の威力は半減期といわれる期間だけでも数年数十年数百年もかかりゼロになるには気が遠くなるほどの歳月を要することなどなど、ざつと素人の私が考えついただけでも放射能とはまるで得体の知れない怪物なのである。

 そうした怪物に対峙しなければならない場面に遭遇したとき、人は果たしてどうしたらいいだろうか。もちろん「政府の言うことなんだから頭から信じなさい」というのも一つの理屈である。「がれきの放射能汚染に皆、疑心暗鬼なのだろう。焼却灰に含まれる放射性物質が国の安全基準以下なら一般ごみと同様に埋め立て処理ができるはずだ」(2012.3.5、朝日新聞、読者投稿)のように考える人がいたとしても、それはそれで構わない。でもそれを素直に信じられないのが多くの人びとの現実的な思いなのではないだろうか。

 「除染」は確かに進んでいる。「除染」とは言葉通りの意味ならば放射能を除くことである。だが現実の除染とは単に「放射能を薄める行為」、つまり「減染」でしかないことを私たちは事実として知っている。原発による放射能をきれいに除くことができるなら、政府も行政も民間も「これで除染した地域は日常の放射能基準に戻りました」と宣言できるはずである。屋根を水で洗い校庭の土を剥ぎ取って別保管することで、「福島も、九州も北海道も並べて自然界での放射能レベルに戻りました」と宣言できることになるだろう。それはまさに「ゼロ宣言」と同じである。にもかかわらず除染結果について、どこからもそんな声は聞こえてこない。どこまで薄めたなら放射能の影響がなくなるのか、まさに誰もが信頼できる実証的な宣言が望まれているのである。

 以下の引用は私が切り抜いた朝日新聞の一部である。

 「・・・果実の皮は、実より1.5倍、セシウムが多かったため、皮をむくことも一案」(2012.2.10、摂取量減らす対策は?Q&A)
 「・・・食事からの(セシウム)摂取量をなるべく減らすためには、・・・同じ産地の同じ食品を食べ続けると、汚染した食品を食べ続ける可能性がある」(2012.2.11、食からの被曝 解明これから、国立医薬品衛生研究所食品部長)
 「・・・(住民の)内部被曝を測ってデータを『見える化』することが大切だ。・・・ただ、ホールボディーカウンター測定には限界がある。・・・もともと大人用に設計されているので子どもの測定は難しい」(2012.2.11、食からの被曝 解明これから、東大教授)
 「・・・福島県は森林の面積が広い。森林にたまったセシウムが今後、どう影響するか未知数だ。今後の変化を調べる必要がある。・・・色々な産地の色々な物を食べて、取り込むセシウムの量を意識的に薄めることが重要」(2012.2.10、本社・京大 食事の放射能検査、京大教授)
 「・・・今月に福島市で開かれた国際専門家会議『放射能と健康リスク』で、英国やロシアなどの専門家が、線量が低くても健康への影響はゼロではないという研究成果や、福島県での発がんリスク予測を発表した」(2011.9.29、『被曝量低くても発がんリスク』)
 「・・・市役所で計測される最近の空間放射線量は・・・国が基準値とする(線量を下回っているから)この街で暮らし続けるうえで健康のリスクは極めて少ないと言っていいでしょう」(2011.11.8、私の視点、風評被害 国は安全性を強く伝えて、会津若松市長)
 「高い放射能で輸出できなかった中古車が国内で流通している。(業者談)国内で売ることにしました。うちも損するわけにはいかないですから。」(掲載日不明)
 「・・・被災地では『除染をしても線量はゼロにはならない。今後、どう共存していけばいいとかと』と不安の声が絶えない。・・・放射能で汚染された食物による内部被曝の危険性もつきまとう。専門家からも『低い線量を侮ってはいけない』(放射線医学総合研究所放射線防護研究センター長)と警鐘を鳴らす意見が出ている」(2011.11.21、年20ミリ未満なら本当に大丈夫?)
 「・・・放射性物質に対する子どもの影響は未解明な部分が多い。・・・食品安全委員会の委員長は(記者会見で、先に発表した子供向けの基準値について外部被曝の公表は所管外であり)、『あたかも外部被曝を含めた放射線全体の健康影響評価をしたような誤解が生じた。説明不足をおわびします』と謝罪し、これまでと異なる見解を説明した」(2011.10.28、食品基準 子ども重視、生涯累積100ミリシーベルト答申)


 こうした記事や情報に日夜さらされながら、専門家でもない私たちはどこで安全と万が一の危険の境目に自己責任を重ねていったらいいのだろうか。放射能被害は、「体調が悪くなった。でも医者にかかって一週間で治った」ですむものではないのである。しかもその影響について政府も専門家も、「被曝者の発がんのリスク」までの意見にとどまっているのはどうしても変である。放射能の影響は遺伝による子や孫たちなどへの影響も含めた上でのリスクを発表してこそ完結するのではないかと思えるからである。

 恐らくそのリスクは少なくとも現状では「誰にも分からない」のかも知れない。政府や学者が万能ではないことを知らないではない。放射能の影響について政治や研究者が真剣に取り組み始めたのは、日米では広島長崎の原爆投下後、そして国際的には恐らくソ連のチェルノブイリ原発事故以後であり、遺伝への影響などはまだ動物実験の段階なのかも知れない。だからこそ政府も学者も「絶対安全です」との基準を示せないでいるのではないだろうか。そうした不確かさを国民はどこかで本能的に肌で感じている。それが政府などの発する安全基準に対する「胡散臭さ」として機能しているのではないかと思っている。つまり政府も「絶対安全」の基準を分からないままに安全の宣言をしているのではないかということである。

 今年の福島県での米の作付けが、収穫米の全袋検査を前提に進んでいると聞いた。それはそれでいいけれど、「放射能未検出」ならともかく基準値以下であってもその数値はそのまま製品に表示すべきである。基準値以下は安全だとばかりに、未検出と紛うような表示をしてはならないと思う。そんなことをしたら、人は福島産米どころかその近隣の作物や製品の全体について今までと同様の風評にまみれさせてしまうだろう。基準値以下でも数値を表示したら米は売れなくなると心配するかも知れない。でも安全はきちんと証明するか、それでなければ流通させてはならないことは覚悟すべきである。

 国民を人質にとるような安全宣言など、そしてましてや産業振興や地域振興などの思惑をそれに上乗せするなどは決して許されるものではない。どんなに地域の農業が大切であろうとも、「震災はお互い様なのだから多少の、もしくは万が一程度の放射能の危険くらい全国民と分かち合ってもいいではないか」みたいな論法など決して許してはならないないと思うからである。

 さて、そうした公式発表されるデータが人びとの心に、安全の意識を植え付けられないのだとしたら、残るは自分で判断するしかないのではないだろうか。そしてこれまで何度も繰り返した言葉の登場である。「君子危うきに近寄らず」、「触らぬ神に祟りなし」、言い古された手垢に汚れた言葉かも知れないが、私にはそれしかないように思えるのである。それが残された唯一の正しい選択ではないかと思うのである。それは私たちが祖先から生き残るために手段として大切に伝えられてきた、そしてこれからも伝えていくべき本能としての珠玉の言葉だったのではないだろうか。たとえそれが「風評に毒された影におびえる行為だ」と批判されようともである。

 追補 1 野田総理大臣は今日の記者会見で被災地の瓦礫処理について全国の自治体へ法律に基づく要請文書を送付したとのことである(2012.3.12 夕刻のテレビ)。その中継画面で総理はこんな言い方をしていた。「(この処理を引き受けるかどうかに)日本人の国民性が問われています」。私は信じられなかった。放射能被害を恐れる国民に向って、日本人は優しいのだから多少の危険くらいは我慢しましょう、それが日本人としての心意気なのです、そんな言い方は論理のすり替えであり、最高権力者の驕りではないかと感じられたからであった。そしてその一言になんとも言えない憤りを感じてしまったのであった。

 追補 2 「(全国での)分散処理はがれきの拡散でなく、リスクの共有と考えていただけないでしょうか」(2012.3.12、朝日新聞、読者投稿、盛岡市 54歳 主婦)。言っていることの意味が分からないではない。だが「放射能による被曝被害」というリスクを全国民で共有することが、果たして本当に正しい選択であるのか私にはどうしても疑問に思えてならない。それをリスクの共有という概念に押し込めてしまっていいのかにも納得できないでいる。消費税の増税や生活の質を落としてでも節電に協力しようなどのリスクの共有なら分からないではないけれども、この投稿者もまた「絶対安全」の架空の神話を自らの住んでいる地域のがれきの山に重ねようとしているのではないだろうか。


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                                     2012.3.10     佐々木利夫


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