年齢も70を超えてしまうと、何を言っても言っ放しでいいという特権が自動的に与えられてしまう環境に置かれているような気がしてくる。だとすればそんな立場からの発言は、逆にあんまり信用されないことの裏返しになっているのかも知れない。しかもそんな立場を我が身に重ねてみると、そうした発言の多くはどうしても過去への自分の思いにつながってしまうものであり、昔からの老人の定番的な繰言である「今時の若い者は・・・」になってしまうような気のしないでもない。それはそれで仕方のないことだとも思う。何といっても今の私が私として存在しているのは、良いにつけ悪いにつけ自分で自分を育ててきた結果だからである。

 人はもちろん自分だけで成長してきたわけではない。両親を含めた系譜があり、家族や友人や社会の様々に様々な形で影響されながらの今であることを否定できないからである。親に叱られたことや、友達とケンカしたことや、仲間が酒を教えてくれたこと、そして結婚し子どもや孫が産まれたことなどが今の自分であることに大きな影響を与えているだろうことを否定はできないだろう。

 それでも私は、やっぱり基本には自分に対して向き合ってきた姿勢が今の自分を形作ってきたのではないかと思うのである。だからと言って私がどんな場合も前向きで、理想を求めて努力を重ねてきたことを言いたいのではない。努力の程度もまた自分次第であり、時に身勝手だったであろうことも実感しているからである。

 そうした思いの中で一つだけ自分なりに結論めいたものが得られたような思いがある。それは前述した「努力の程度」についてである。私たちは「努力すれば報われる」ことをどこかで神がかり的に信じてきた。親や教師や友人や知人などなど、あらゆる人たちからこの言葉を呪文のように言われ続けてきたように思う。きっと成功する、きっとうまくいく、意気込みこそが成功の秘訣だ、だから頑張れ、そう言われ続けてきたように思う。

 だがそれが多くの場合嘘であることを、私たちは降りかかってくる挫折の中から学んでもきた。才能がないことや金がないこと、場合によっては時間がないことやチャンスや健康に恵まれなかったことなども含めて、様々な要因によって私たちは「努力すれば報われる」の呪文が多くの場合仮説、それも嘘にまみれている願望でしかないことを身をもって知ることになった。
 「努力が報われるとは限らない」ことは恐らく多くの人、もしかしたら生きとし生きている全ての人たちが我が身のこととして己の人生に重ねてきた真実なのかも知れない。

 それならば「努力することは無駄なのか」と問いかけてみると、この年齢になったからそう思うのかも知れないけれど、「報われる」ことや「成功の甘いしずく」だけを目的としているから挫折を裏切りと感じるのであって、受け止め方を変えてみるなら努力からは相応の報酬を得ていることが分かってくる。

 それは端的に言うなら「努力は努力した人を裏切らない」ことである。もちろん、努力が成功に結びつく保証はない。むしろ努力は報われないことのほうがずっとずっと多いことだろう。それでも努力は小さいかも知れないけれど自らの成長の糧になっていることを、いずれ自らの経験として知ることになる。

 弁護士を志して司法試験の勉強を始める。だからと言って努力した者の全部が弁護士になれるわけではない。それは高校や大学の受験でも、就職のための採用試験でも同じである。合格や採用を唯一の目的たる結果とするならば、それに届かなかった努力の過程は徒労であると感じる気持ちが分からないではない。

 でもこうして70数年の人生を振り返ってみると、様々な努力や挑戦などがたとえ小さなものであり、場合によっては成功のために挑戦したとすら言えないほどささやかな努力であったとしても、小さな努力は小さいままに私の中に積み重なり、小さいながらそれなりの成果を与えてくれていることが分かってくる。

 私の人生も、「私が望むこと」の重さで計量してみるならば、いかに挫折が多かったことだろうか。ほんの僅かの報われた結果を自身に確かめることはできるけれど、あれにもこれにも届かなかったとの思いなどはいくらでも拾い集めることができる。ではそうした多くの挫折へ注いだ努力はすべて徒労に過ぎなかったのだろうかと思い返してみると、決してそうではないことが分かってくる。

 私にはそうした徒労とも言える多くの努力の一つ一つが、少しずつ自分の血となり肉となっていることが分かってくる。たとえそうした望みの多くが仮に夢想に近いものであったとしても、その夢想に向って努力した事実はどこかで今の自分を形作っていると分かってくるからである。

 成功した果実の滴りは甘い。そしてそうした思いとは裏腹に挫折の苦さを知らないではない。それでも100メートルの山に挑んで1メートルの努力しかしなくて、結果として登頂に成功しなかったとしても、その挫折は0メートルのスタート地点へと戻されることではない。

 ある試験に何度も挑戦したことがあり何度も挫折を味わい、そしてとうとう成功しなかった記憶がある。それでもその時に気づいたことは、努力することによって挑戦を重ねるたびに少しずつではあっても実力のついてくるのが感じられ、それが自信につながってくることであった。また、ある時はなかなか納得してくれない上司を説得しようとして、何度も資料を読み返すことで、怖じける気持ちを押さえその上司に対面できている自分に気づいたこともある。そうした努力の積み重ねは、やがて自分の生き様や人生に対する考え方などに影響を与えるようになってくる。それはまた部下への対応や難解な哲学書への挑戦などについても同様であった。

 努力は別に学ぶことのみに限るものではない。あらゆる努力が、努力したその人を少しずつ形作っていることが自分で分かるようになってくるのである。すぐに結果が出る場合もあるし、それと気づくにはそれなりの時間がかかる場合もある。そして分かったことは結果的に挫折しても、その努力は少なくとも努力した自分を裏切ることはないとの思いであった。その裏切らないとは、必ずしも成功を意味するものではない。生きる自信や目的や生きがいと言ったものの多くは、そうした数多くの無駄とも言えるような小さな努力の積み重ねから出来ているのではないか、そんなふうに考えることができるようになってきたのである。

 ところで以前にも努力することについて書いたことがあるのを思い出した(別稿「努力は報われる」参照)。読み返してみたのだが、ここで書いたこととどこかずれているように感じてしまった。まあ、人生が真っ直ぐな筋道の通ったようになることなんてのは、私のような凡人には無理なのかも知れない。揺れるのが人生であり、その揺らぎの中で人は生きているのかも知れないと思いつつ、歳をとっていくということはそういうことでもあるのかと身勝手にも自分を納得させている。


                                     2012.3.29     佐々木利夫


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努力することの意味