今度の日曜日(2012.12.16)は衆議院議員選挙の投票日である。友人のブログの表現を借りるなら、「数え切れないほど、と言うより覚えきれない位の政党」が乱立していて、そのほとんどが現在の与党である民主党の失政を声高に主張し、我が党こそが国民目線の政党だと主張している。
 そうした主張の中に「脱原発」がある。政党によっては緩やかに減らしていくとの意味で「卒原発」と名づけているものもあるけれど、「直ちに」から「10年、20年かけて」までの期間の長短はあっても、原発を廃止する方向に向かっていくことについてはほとんどの政党が主張しているところである。

 自民党はどちらかというと原発への依存度を小さくしていく方向だし、維新の会は廃止に否定的ではないもののどこか煮え切らない態度が目に付くなど「完全脱原発」からは少し距離を置いているように見受けられる。それ以外の政党はすべて脱原発であることは間違いないようである。

 ところでニュアンスの違いはともかくとして、自民党も含めて原発を将来に向かって小さくしていこうとする思いは、全政党の共通のテーマであるような気がする。自民党にしたところで、産業振興などの思惑からくる内心の思いはともかく、将来的に原発以外のエネルギーを目指していくことは明らかにしているから、「代替エネルギーの開発に努め、可能な限り原発依存度を小さくしていく」との考えは持っているようである。

 つまり全政党が原発の縮小や廃止に向かい、太陽光や風力などの自然エネルギー、再生エネルギーを目指すとの主張が、今回の選挙では大きなテーマになっている。それはそうかも知れない。なんたって、福島での東京電力の原子炉崩壊による影響にはすさまじいものがあり、国民の全部と言ってもいいくらいが原発に危機感を抱いているからである。積極的推進など主張しようものなら、「我が党の拡大」など望めないとの姑息な判断がそこにあるだろうことくらい政治に音痴な私にも良く分る。

 でも、でもである。私にはこの脱原発には、一つだけどうしても事前にきちんと整理しておかなければならない基本的な命題が存在しているのではないかと思っているのである。そしてこの命題に対して、どの党も、どの党首も、どの候補者も、誰もきちんと答えようとしていないように思えてならないのである。

 それは「使用済み核燃料廃棄物の処理」である。それは「原発を廃止すればその段階で廃棄物問題は解決する」との理屈では決着しないからである。10年後に脱原発、30年後に脱原発・・・、「それじゃあその間に生じた核燃料廃棄物の処理はどうするんだ」の問題だけではなく、即時停止だからといって解決するものではないのである。

 使用済み核燃料廃棄物の処理には二つの問題があるように思える。一つはまさに廃棄物そのものの処理であり、もう一つはプルトニウムの問題である。プルトニウムの問題も結局は廃棄物処理へつながるのだが、経過や考え方が異なるので別のテーマとして捉えたほうがよいと考えている。

 日本の原子力発電は、そもそも第二次世界大戦の敗戦で原子力の研究そのものが連合国から禁止されていたこともあって、1952(昭和27)年のサンフランシスコ講和条約での研究解禁が嚆矢となる。1954年に開発予算が計上され、1955年に原子力基本法成立、そして1957年日本原電設立、1963年東海村試験炉稼動へと続いていく。

 まず第一点の廃棄物処理であるが、原発は1963年に試験炉が始まっているから今年で49年になる。政府による経済政策の支援を受けで現在では日本のあらゆる地域に原発は存在している。そのすべての原子炉がこの49年間休みなく放射能廃棄物を産み続けているのである。その廃棄物は、発電所そのものが「トイレなきマンション」と呼ばれながらも日本の各地に貯蔵されたままになっているのである。

 この廃棄物はとてつもなく強い放射能を持っている。もちろん厳重な保管がなされており、使用済み核燃料から更に燃料としてのプルトニウムを取り出す再処理などの方法も考えられているが、これまで何度もここへ書いてきたとおり、放射能はその種類によっては数千年、数万年という気の遠くなるような時間の経過を待つ以外には消えていくことはないのである。

 再処理の終末は地下300メートルより深いところに埋める「地層処分」であり、放射能が弱くなるまで10万年、人間社会から遠ざけることを基本としている(2012.12.8、朝日新聞)。だがこの方式の見直しを提言した日本学術会議の検討会では、「10万年単位のリスクの計算は不可能だ」(同朝日、学術会議の検討委員長東京工業大・今村高俊教授)との意見や「無責任な大ばくち。10万年経ても地震の影響がないという場所の特定を今するのは無理だ」(同朝日、神戸大・石橋克彦)とする懸念が相次いだ。
 このことからも分るように「時間経過を待つ以外には影響から逃れる方法はない」という放射能に対する観念を私たちはしっかりと理解しておく必要がある。しかも、その放射能は被曝という直接的な加害はもとより、遺伝的な影響にまで及ぶのだから、まさに人類に対する危機でもあるのである。

 日本の使用済み核燃料は、基本的には再処理をすることになっている。再処理とは使用済み核燃料の中からプルトニウムを抽出し、それを高速増殖炉などで燃料として再利用するシステムである。再処理なんて言ってしまうと、いかにもその処理過程で放射能は無害になってしまうかのような感じを受けるが、何度も言うけれど放射能は少なくとも今の科学技術では消すことはできないのである。しかも抽出されたプルトニウムの半減期は2万4千年、僅か1グラムで100万人以上もの肺がんを発症させると言われている。

 人類としての起点をどこにするのかは歴史の捉え方によって異なるだろうが、キリストが生まれてから2000年、中国3000年の歴史と誇らしげに言ったところで文明的にはたかだかそんなものである。そんな中で半減期が数千、数万年と言われる放射性物質を、人は人工的に作り出したのである(ちなみに放射能を出すプルトニウムは自然界ではほとんど見当たらないとされている)。

 さてそうした危険な放射性物質が原発の継続でこれからも生成されるというだけではなく、50年近い原発の歴史の中で既にたっぷりと国内に貯蔵されているのである。そしてその放射能は煮ても焼いても減らすことのできない状態のままに、今後数千年、数万年もの間私たちの回りに存在し続けるのである(続)。

                                     脱原発の行方(2) へ続きます。


                                       2012.12.13    佐々木利夫


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