脱原発の行方(1)からの続きです。

 50年近い原発の利用から生じた使用済み核燃料廃棄物が、現在山のように残されているのである。原発を再稼動することによってこうした廃棄物問題が新たに発生するというのなら、原発を廃止することで問題は解決するかも知れない。だが脱原発とは、原発による発電を廃止以後しないということである。それはそのまま、プルサーマル(プルトニュウムとサーマル「熱の意味」との造語で普通の原発でプルトニュウムウランの混合物を燃料として使う方法)や高速増殖炉(プルトニウムをそのまま燃料として使う)による発電も廃止することである。そしてそれはプルトニュウムの再利用の道を閉ざすことであり、つまるところ核燃料サイクルとして計画されている再処理の必要もまたなくなることを意味している。

 さて現在使用済み核燃料の再処理方法は海外(英仏)への委託以外に、国内では1993年に着工された青森県の六ヶ所村の六ヶ所再処理工場がある。再処理で放射能が消えるわけではないことは何度も書いたが、この再処理を経由しても抽出したプルトニュウムのほかに再処理後の高レベル放射性廃棄物や低レベルの廃棄物などが発生し、単なる量としての話ではあるが受け入れよりも量としては増加するといわれている。

 この再処理後の廃棄物や半減期2万4千年ものプルトニュウムをどうするのか。六ヶ所村との契約では「30年から50年間、一時的に貯蔵される」ことになっているが、このことはあくまでも保管が暫定的であることを意味しており、その後の処理方針は中断している。つまり、最終処分場としては、国内ではまだ調査地点さえ決まっていない状況にあるのである。

 ここまで書いてくると分ってくると思うが、日本各地の原発をはじめ再処理工場には、現在山のように放射性物質が溜まっている。この膨大な放射性物質に、もし脱原発を推進するのであれば、直ちにしろ将来的にしろ廃炉に伴う放射能をたっぷりと含んだ建設資材が加わり、そしてもちろん現在は発電停止中ではあるが使用中の核燃料をどうするかも目先の問題となる。そして更に福島第一原発の事故で生じた除染の廃棄物がこれに加わることはいうまでもない。

 当然のことながら脱原発を選択するなら再処理の必要はなくなるから、「使用済み核燃料の最終処分場とはしない」、「再処理工場として将来とも稼動を続ける」ことを前提とした六ヶ所村の住民との約束は無意味になるだろう。そうすると使用済み核燃料は再処理の対象である資源から、そのまま「核のごみ」へと名前を変えることになってしまう。そうした金を産むことのなくなったごみを、最終処分場としないとの約束をした六ヶ所村が今後も継続して引き受けることなどないだろうことくらい誰の目にも明らかである。

 脱原発とは、こうした最終処分のシステムをきちんと構築した上でないと、決して進む話ではないのである。こんなことを無責任に言っていいことではないとは思うけれど、山林に降った放射能に汚染された木材が、政府による安全基準の範囲内であるとするお墨付きにもかかわらず、祭りの薪として使うことにさえも拒否反応を示した日本人である。低レベルとされる東北の汚染瓦礫の処理でさえも引き取りを拒む日本国民である。それが高レベルの廃棄物の最終処分場として引き受ける地域が、国内であっさり見つかるとは私にはどうしても思えない。行き場のない「放射能のごみ」を解決しないままの脱原発など、私にはちゃんちゃらおかしいように思えてならない。

 第一の問題点だけで話が長くなってしまったが、第二点にも触れなければならないだろう。プルトニウムである。プルトニウムは原発の燃料として使えるけれど、もう一つ核爆弾の材料でもあることに私たちはあまり気づいていない。日本が保有しているプルトニュウムは、再処理によって新たに核燃料として再利用するとの前提があっての話ではあるのだが、海外に委託して保管してもらっているものが35トン、国内での保管が10トンだと報告されている(平成22年末、平成23.9.20、内閣府原子力政策担当室発表)。海外にあるからといっても、世界的にも最終処分場は決まっていないから、委託された国にとっては単なる日本からの預かりである。

 この保有量で何発の核爆弾が作れるのか私には分らないが、ミサイルに搭載して発射できるくらい小型化されているのだから、45トンものプルトニウムの量だけから考えるなら、恐らく数千発は可能なのではないだろうか。

 維新の会の代表である石原慎太郎前都知事は、今度の選挙演説で日本も核爆弾についてそろそろ研究を始めてもいいのではないかと言って物議を醸したが、核爆弾を作る以外にはこのプルトニウムは無用の長物、厄介者でしかない。日本が危険なプルトニウムを保有しているのは、そこに平和利用の目的(発電)があるからである。1997年にプルトニウムの平和利用に関する国際的指針が合意されたが、その合意の目的は核拡散の制限にある。

 核を持つ国が国際的な発言力を強めていくとの発想は、世界中に広まろうとしているし、インドの例を見るまでもなくそれは事実として浸透している。イランや北朝鮮が経済制裁を受けながらも必死になって核実験を繰り返しているのは、錯覚にもしろ国際的に先進国と対等な地位につきたいとの思いからである。このまま核の拡散を許したなら世界中が核爆弾を保有し、場合によってはテログループにまで浸透してしまう危険さえ生じるだろう。
 アメリカやロシアや中国などの大国だけが核の保有が認められ、力のない国には持つなと強制することじたいどこか矛盾はあるけれど、核の不拡散は国際的な共通的なテーマである。

 原発の作り方は簡単だと言われている。インターネットで調べるなら、材料さえあれば素人にも作ることができるとも言われている。日本の科学技術からするなら、核爆弾の開発などお茶の子さいさいであろう。しかも原料としてのプルトニウムはたっぷりと持っているのだから。
 日本はプルトニウムの保有を原発燃料として使うことだけで国際的に認められているのである。それが脱原発になると、突然その使い道がなくなってしまうことになる。使い道のないプルトニウムの保有は、場合によっては国際的に日本の核装備などへの新たな疑惑を生むことは、これまでに日本が起こした数々の戦争の歴史からみて避けられないであろう。

 脱原発は国内的にも国際的にも、こうした二つの大きなジレンマを抱えているのである。与党である民主党政権が30年で原発を廃止するとの見通しを宣言しながらも、六ヶ所村へは再処理を継続すると伝えたのは最終処分場が決められないまま中間貯蔵をも拒否されることを恐れたからであろう。そして青森県大間で建設途中のまま福島の事故で中断していた工事を継続させる決定をしたのは、この原子炉がプルトニウムとウランの混合燃料を使ういわゆるプルサーマル型であって、プルトニウムの行方に少しでも道筋をつけたいとの思いがあったからだろう。つまり脱原発と矛盾するような決定を下した背景には、こうしたジレンマが内臓しているからなのだろうと私は理解している。

 高らかに脱原発を掲げる政党も、ゆっくりにしろ縮小を掲げる政党も、どこも核燃料廃棄物やプルトニウムの行方について語ろうとはしない。宣言だけが先行して、大切な事柄に触れないのは選挙戦ではよくあることかも知れないけれど、脱原発の行方についてはこの二つのテーマの解決を急がなければならないだろう。仮に日本が原発を継続するにしたところでも・・・、である。


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                                       2012.12.14     佐々木利夫


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