放射能被曝にどう対処していくかは、内部被曝と外部被曝を合わせて考慮すべきではないかと書いたのは先月のことであった(別稿「入り口と出口のすり替え」参照)。書いていて、国民が放射能に関して神経質になっているのは、そしてそれを「神経質になり過ぎている」と政府や識者が繰り返すのも、つまるところ発表されている「政府の基準」なる数値が国民にきちんと浸透していっていないことに原因があると気づいた。向こう三軒両隣の平均的な頭しか持っていない多くの国民のそれぞれに、放射能についての専門的知識を持つことを期待するのは恐らく筋違いの願望だろう。ましてやそうした専門的知識の理解を前提として物事を構築することなどもってのほかだと思うのである。

 世の中にはきちんと放射能の研究をしている学者や専門家が存在していて、そういう人たちが専門的知識のない人たちにも分かるように噛み砕いて伝えてくれることが、私たちの抱く放射能理解の基本にあるのではないかと思う。こうした国民の理解の浸透は別に放射能に限るものではなく、詐欺まがいの商法や犯罪などの情報伝達でも同様であろう。
 私たちが得心する理解の一つのパターンとして例外のないことがあげられるだろう。ある人が「安全」と言い、ある人が「安全とは言えない」と反論し、しかも「安全」と言った人が「安全とは言えない」と言った人を説得できない場合などは最悪ではないだろうか。私たちが理解できることは専門的知識そのものではない。水が零度で固体に変る論理的根拠を求めているのではない。冷蔵庫で水割りの氷ができること、そして火にかけたやかんのお湯が沸騰して水蒸気になっていくことは感覚的に理解できることであり、そうした感覚に反論がないことや自らの知識で了解できることが納得なのである。それが「信頼」の基本にあると思うのである。

 ところが分かりやすく伝えるべきこうした情報が、こと放射能というとてつもなく理解しくく体感もしにくい場面においては、ちっとも分かりやすく伝わってこないのはどうしたことだろうか。しかも放射能は目にも見えず、音も臭いも気配すらもしないのである。私はこうした場面で人は、まず第一に「危うきに近寄らず」を基本に考えてしまうのではないか、またそう考えるのが人としての正しい選択なのではないかとこれまで何度も書いてきた。古代から私たちは病気からも災害や他者からの攻撃などから身を守る手段として、まず第一に「逃げること」を基本に置いていたのではないかと思うからである。

 色々な機関や業者や生産者などが放射能測定結果に対して「国の安全基準よりも低い」、「国の基準を満たしている」ことをしつこいほどに繰り返す。その意味するところは、「だから安心して飲み・食え」、「だから安心してそこに住め」と言いたいからである。そのことが分からないと言うのではない。でもちょっと考えてみるとこうしたもっともらしい安全の話は、「自然界に存在する放射能値よりも高いけれど・・・」、もしくは「放射能がゼロではないけれど・・・」がその前段に隠されつつ付着していることくらいすぐに分かる。

 国民はその前段にまとわり着いている「そのこと」に疑念を抱いているのである。もし測定結果が自然界に存在する程度の放射能であったなら、恐らくその事実を公表することだろうと思うからである。自然界にも放射能が存在していることくらい誰もが知っていることである。だからそうであれば、「放射能は検出されません」と言ったところで嘘つき呼ばわりされることなどないだろう。人はその「自然界に存在する放射能よりも高いけれど・・・」の言葉が見え隠れしていることそのことに反応しているのである。それはなぜか。「絶対安全です」の確信が持てないでいるからである。それは政府や専門家が私たちに伝える言葉の中に、確信が得られるような内容が含まれていないからである。

 政府の言葉が「ただちに健康に被害はありません」から始まったことはこれまでに何度もここに書き、この後の対応などから権威者の発言が信頼されなくなってきたことについても既に触れたところである。いまだに風評などといわれている放射能に対する国民の嫌悪感は消えていないことは、政府や専門家の意見の中に「絶対安全」の信頼が置くことができないことにある。私たちが得られる知識は、つまるところ新聞テレビなどに報道によることろが多い。仮に手持ちの食品の安全が不安で放射能値を測定してもらったにしても、判断する基準というか気持ちの整理はやっぱり新聞テレビなどから伝わってくる情報に頼るしかないだろうからである。

 最近の新聞記事から私の受けた放射能に対する感触を拾ってみよう。

 「・・・国立国際医療研究センターなどは、PET/CT検査を受けた場合に、がんが早期発見されて平均寿命が延びる利益と、放射線被曝による発がんの不利益を比較した。検査を受けるメリットがあると考えられるのは、男性は50代以上、女性が50〜60代以上との結果が出た。・・・若い人にとっては、不利益の方が大きい・・・」(2012.5.8、朝日新聞、1分で知る豆医学)

 PETやCTによる検査の被曝量が原発事故のそれとどの程度の差があるのか、私には分からない。それでも検査によるがんの早期発見の利益と発がんのリスクの境界を高齢者に置いていることは、こうした検査にもやはり被曝の危険があることを示唆している。いやいやそれ以上に、放射線被曝に発がんの不利益あること自体をこの記事は明示しているのである。

 「・・・よほど原発の近くに行かない限り、放射能物質をほこりや粉じんとともに呼吸で取り込んでしまうことはありません。強風時には可能性はゼロではありませんが、花粉症対策でいっかりとマスクするようなイメージで十分だと思います。室内の放射線量を10%下げるのは結構大変です。裏山や農地など、もう少し広めに除染する必要があります。・・・土についている放射性物質は・・・1回では全部取り除けませんし、遠くの放射性物質からの影響もあるので、一気に線量が低くなるわけではありません・・・」(2012.5.13、朝日新聞、特集Q&A)

 大丈夫みたいな話をしつつ、同時に「しっかりマスクをするように」だとか、「1回の除染では全部を取り除けない」など、絶対安全とは裏腹な回答になっていることを回答者自身は承知しているのだろうか。もし「万が一」を考えてのことなのだとするなら、それは同時に「万が一にしろ危険がある」ことをも発信していることになるのではないだろうか。

 「・・・不安を抱く背景に誤解や知識不足がある、とわかった。例えば『放射能を浴びると絶対にがんになる』という声。こうした誤解には、科学的データを示しながら、手稲名にこたえることが必要だ。・・・放射線量についても半減期との理解がうまくつながつていない。・・・現在の線量が永遠に続くわけではないことはりかいしてほしい。・・・『ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしい』との寺田寅彦の言葉がある」(2012.5.13、朝日新聞、東京工業大特任准教授 大場恭子)

 「絶対がんになる」との思いが誤解であり知識不足だと言う。その意見に異を唱えようとは思わない。だがある確率で放射能影響によってがんになった人に対して、こうした言葉がどこまで説得力があるとこの人は考えているのだろうか。一万人に一人の不幸だったかもしれないが、その人にとって「絶対がんになる」は事実だったことにどうして思いを馳せることができないのだろうか。彼女は寺田寅彦の言葉を引用している。どうして彼女は「正当にこわがる」ためのきちんとした説得、つまり「誰からも反論がでないほどにも100パーセント絶対安全」であることを伝えようとしないのだろうか。その努力をしないまま、「あたふたこわがるのは知識不足のお前の努力不足のせいだ」みたいな残酷なことが言えるのだろうか、

 「・・・(私は)放射性物質をライオンに見立てて『放射線は見えないが、結局、ライオンが野放しでそこらじゅうウロウロしていのと同じで危ない。だから、ちゃんとオリに入れて管理すれば大丈夫。セシウムも同じ』と説明した。・・・除染は放射線量の高いところからするが、全部をとれるわけではない。が、住民は『残らずとってくれ』と。『山から除染すべきだ』『反転耕や深耕は除染じゃない』との声も出たが、山から除染すれば家の除染を始めるのに時間がかかるし、土を必要以上に取りれば廃棄物が大量に出る。住民の要望すべてには応えられず、難しい対応だった。・・・市町村としては、住民の健康への影響を最小限にすべく、除染を進めたい」(2012.5.13、朝日新聞、伊達市市民生活部次長 半沢隆宏)

 彼の一生懸命さが分からないではない。恐らく多くの住民を前にして煩悶していることだろう。それでもなお私は、彼を責めるのではなく、やはり不安解消にはなっていないと思うのである。問題点は二つ、「オリに入れて管理すれば大丈夫」と言うが、あの山のような汚染水の貯蔵タンクの数、そして増え続ける汚染水、瓦礫や除染土や廃炉などからの汚染廃棄物、そしてそれ以上に日本中で生産される核燃料廃棄物をどう管理するかは誰も教えてはくれない。しかも、最終はおろか中間処理施設の場所さえ決まらず、核燃料の再処理さえ中途半端なままである。もう一つ、彼のやり方もまた「住民の健康への影響を最小限にする」ことでしかない。その最小限がどこまで安全なのかの基準は誰にも分からないのである。
 安全であることを確信的に示さずして、「残らず取ってくれ」との住民の声を真剣に理解することなどできないのではないだろうか。私にはこうした住民の声を投稿者は、「気にし過ぎだよ」とか「過剰な反応だよ」などと単純に考えているようにしか思えないのである。そしてつまるところ、金も時間もかかるのでほどほどのところで我慢して欲しい、妥協すべきだと言っているに過ぎないように私には思えるのである。

 「広島への原爆投下から10年以内に生まれた被曝2世について、両親のどちらかが被曝した人に比べて、両親ともに被曝した人の白血病の発症率が高いことが、広島大のグループの研究でわかった。・・・放射線の被曝2世への遺伝的影響について、日米共同研究所が・・・調査。結論を出すには今後数十年の調査が必要としている」(2012.6.4、朝日新聞、白血病、『両親被曝』高発症率)

 この記事は福島の原発事故とは何の関係もない。だが放射能による遺伝的影響については、原爆投下から70年近くたった今になっても「影響がある」ことだけしか分からず、結論を得るにはまだ数十年かかるとこの記事は伝えている。つまり、それまでの数十年はどこまで安全かは分からないまま我々は放置されてしまうのであり、しかも、しかもである、数年数十年を経た後で「あの時こうしてさえおけば・・・」と後悔しても手遅れなのである。

 このほかにも、「放射能物質に汚染された下水汚泥や土は、焼却すると雨水などにさらされた際に放射能セシウムが溶け出しやすくなる」(2012.5.22、朝日新聞)だとか、「世界保健機関(WHO)は23日、東京電力第一原発事故による国内外の被曝線量の推計結果を公表した。原発周辺の全身被曝が10〜50ミリシーベルトと、日本の推計値より高い数字が並んだ」(2012.5.24、朝日新聞)など、私たちがなにを頼りに生活していけばいいのかを揺るがせるような情報は枚挙に暇がないほどである。

 こんな宙ぶらりんのままに置かれている私たちは、「触らぬ神に祟りなし」、「君子危うきに近寄らず」以上の何をどんな風に頼りに生活していけばいいのだろうか。

 煮ても焼いても食えない放射能に対して、私には解決策は二つしか思いつかない。一つは放射能中和技術の開発である。それが物理法則上原理的に不可能なのか、それとも研究途上なのか分からない。でも放射能を消去してしまう技術が実現すればこの問題は一挙に解決するだろう。もう一つは、安全を伝える完全な信頼である。誰からの異論もなく、望む誰もが検証できるような身体的にも遺伝的にも安全であることの宣言を国や学者などの全員が国民にしっかりと公表することである。口先だけの「安全です」の言葉には、国民はすっかり麻痺し不感症になっている。


                                     2012.6.11    佐々木利夫


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