方丈記を読んで、800年前も現在も人はあんまり進化していないのでないかと書いたのは先週のことであった(別稿「方丈記拾い読み」参照)。方丈記についてどこまで理解できたかはかなり疑問ではあるが、短い文章であったこと、800数十年前の作品にしては比較的読みやすい文体だったように思えたこともあって、どうやら読み終えることができた。源氏物語が1000年前の作品と言われているのから比べるなら、その読みやすさは私にとって格段の違いがあるように感じた。

 ところで「方丈記」について、私はそのタイトルの意味についてこれまでなんにも考えていなかったことに気づいた。あたかもそれが固有名詞ででもあるように、その意味するところを考えもしなかったのである。固有名詞にしたところで語源となるような意味があるだろうに、「そもそもそういう名前の本なんだ」との思いに凝り固まっていたのである。

 読んでいて気づいたのだが、方丈記とは「方丈の記」であった。もっとも「方丈」という言葉そのものが日常的に使われることはなく、恐らく古語辞典くらいにしか載っていない用語だろうことは分かる。
 「方」とは正方形、長方形などに使われているように方形つまり四角形のことである。そして「丈」とは例えば「白髪三千丈」だとか「千丈の堤も蟻の穴より崩れる」などにも使われているように昔の長さを表す言葉で、一丈は十尺、一尺は約30.3センチメートルのことだから3.03メートルのことである。分かってしまえばコロンブスの卵だしそんなこともお前は知らなかったのかと浅学の身を示すことになってしまうけれど、方状とは一丈四方の面積を表すのである。

 そしてここで使われている方丈とは著者鴨長明が自ら設計したとされる粗末な一丈四方の住居を指し、そこを我が家としながらこの作品を書き綴ったらしいのである。一丈四方とは3.03メートル四方のことだから9.18平方メートルであり、団地サイズの六畳間が約8.67平方メートルと言われているから、それより僅かに広い程度の小さな庵ということになる。

 作者は生まれ育った神官の系譜や立身出世を捨て30歳で小さな自分の住処を持ち、さらに20年を経て50歳にしてこの方丈の家を作ったと言われている。この家のことを「イヤなことがあればどこへでもすぐ引越せる。権門、富家へのおそれもいらない。自分の自由になる住居はこれだと、行きついた究極が方丈の簡易組立て式住宅だった」とする意見もある(中野孝次、「すらすら読める方丈記」P113)。

 ここで彼は58歳で方丈記を書き終え、その4年後に没している。方丈記を読んでいて、私は次の文章に触れてどこか納得するものを覚えたのである。こんな一言であった。
 「三十 ・・・芸はこれ拙(つたな)けれども、人の耳を喜ばしめんとにはあらず。独り調べ、独り詠じて、自ら情(こころ)を養ふばかりなり」

 彼は琵琶を楽しむ音楽家であり、歴史に残る歌人でもある。そんな彼に肩を並べようとは思わないけれど、彼の気持ちがこの文章からどこかすとんと伝わってくるものを感じたのである。人は支えあって生きていくものだとよく言われるし、そのことに反論するつもりはさらさらない。しかしそれはそれとして、それでも人は時に独りでいる場面も大切ではないかと思ったのである。

 そしてすぐに彼の住まいへの思いに私の事務所を重ねたのである。つまりこの事務所は、これまで幼い頃に抱いていた「秘密の基地」の流れだと思っていたけれど、もう一つには、彼の思い抱いた方丈の家と同じような意味を持つのではないだろうかと思ったのである。鴨長明の方丈の家は自分で設計した住居だったのに対して、この事務所は賃貸のマンションの一室であり、同時に私は自宅を別に所有していてここに住んでいるわけではない。また事務室の広さも賃貸契約書を調べ見たところ23.7平方メートルもあって、方丈の家の約2.6倍にもあたる。

 それでもここにいるのは私ひとりであり、毎日を気ままに過ごせる自由空間である。かつては税理士稼業にも力を入れていたけれど、少しずつ趣味や遊びやこうしたエッセイなどの仕事以外に費やす時間が増えていっている。そして彼も言っているとおりその内容が「・・・つたないけれど他人のためにではなく、自分の心を養うためにあるの」なら、そこに満足を抱いている私の今は鴨長明の思いとそれほど違わないのではないだろうか。

 だとするならこの事務所は私にとっての方丈であり、同時に私のつたない雑文の数々もまたこの方丈の家から生まれでたものだとの意味において、「方丈の記」と言ってもいいのではないだろうかと思ったのである。誰のためにでもなく自らの楽しみのために過ごす時間は、何にも増して貴重である。「そんなことしてなんになるのだ」との声が聞こえないではない。私の所業など歴史に名を刻むでもなく、また後世に伝えるべき何かを残すわけでもない。自己満足とは時間の浪費と同じ意味を持っているのかも知れないと感じることもないではない。
 だが仮に壺中の天にしろ、その満足は自分の満足として存在しているのである。浪費と判断するのは他者の意識ではないだろうか。誰も上手いと誉めることのないギターの爪弾きにも、独りよがりの下手くそな雑文の羅列にも、まさに壺中の天としての自己満足が満ちているのである。


                                     2012.1.27     佐々木利夫


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我が方丈の記