((1)から続く) 昨年の東日本大震災を契機に、「失敗学」が脚光を浴びている。人は成功よりも失敗から多くを学ぶことができることに多くの人が気づいてきたということでもあろう。にもかかわらず、朝日新聞が連載した特集記事に失敗の記録は皆無である。しかも成功したとする答えにしても、道理や我慢や逃避や報復を掲げるだけで、どれ一つとして「目の前の、現に受けているいじめ」を解決するものにはなっていない。

 それは「いじめ解決に正答などない」ことを意味しているのかも知れないし、それはそれで理解できないではない。でも少しでも解決への道筋を探ろうとするのであれば私はこの特集の中に、「いじめられている君」が「いじめている君」に抵抗し、いじめの事実に耐え、「いじめを見ているだけの君」の視線に絶望し、逃避したにもかかわらずいじめから解放されることのなかった失敗例を、そして場合によっては自殺を考えるしか手段がないまでに追い込まれていった具体的な事例をあからさまに加えてほしかったのである。むしろ、そうした中にこそいじめを解決する手段が見つかるような気がしたからである。そうした例は、いじめから脱却できた例よりもずっとずっと多いだろうと思うからである。

 もう一つだけ「いじめている君へ」の新聞投稿を掲げたい。「(高額所得者の芸人が母の生活保護で責められる事例や、東日本大震災での東電の経営者は明確な責任を問われないなど)、弱い人はいじめられ、追い込まれる。強い人は何をしても許され、平気でいられる。こんな社会を今の大人は作っているんです。なんだかおかしいですよね?。・・・私は実は(この私の書いた文章を)『いじめている大人』が読んで、間接的に君に届くのを期待しています。どうか、今の大人とは違った生き方をしてください」(経済学者)
 いかにも美文調ではあるが、果たして彼はここで何を言いたかったのだろうかと真意を疑いたくなる。しかも「大人の変革」という途方もなく迂遠な考えを、「靴を隠す、給食に消しゴムを入れる、バイキンとののしる、金持って来いと脅す、場合によっては殴る」ことを繰り返している「いじめている君」に、どんな形で届けばいいと思っているのだろうか。少なくとも私はこの意見には腹が立った。

 ところで最近NHKのEテレで、アジアの子供たちという番組の中にいじめをテーマとしたドラマを見た。こんなストーリーであった。

 東南アジアらしい地方の貧しい農村の自転車を持っている少年と持っていない少女。少女は少年の自転車に乗せてもらって遊んでいる。それを見た少女の仲間たちからその少女は「サル」と呼ばれてからかわれる。まさにいじめである。中途から見たのでなぜ「サル」なのか分からないけれど、恐らく少年の近くに猿回しを職業としている大人がいて、彼がその猿を自転車に乗せて運んでいたからなのかも知れない。少女はサルと呼ばれるいじめを苦にして少年と遊ばなくなる。
 そんな時にふと見たチラシに「子ども凧揚げ大会、優勝商品自転車」の文字。少女は少年の協力を得て凧作りに励み、見事大会に優勝して自転車を手に入れる。いじめた少女たちの傍らを二台の自転車でさっそうと駆け抜けていく二人。爽やかなエンディングである。

 これを見て、あっやっぱりどこの国でもいじめに特効薬はないんだと思った。「たとえ猿と悪口を言われても、何の恥ずかしいことなどあろうか。胸張って少年の自転車に乗せてもらうような勇気を持て」ではなく、結局「自転車を手に入れる」ことでしか解決しなかったからである。いやもしかしたら、ピカピカの自転車を手に入れたことで、いじめに加わった少女たちの反感が増し、いじめが更にエスカレートするかも知れない。でももしかしたらこのドラマはそれ以上に、いじめられた少女の「それ見たことか」と自転車に乗る颯爽たる自らの姿をいじめた側へ見せびらかしたかった姿を描こうとしたのだろうか。

 「いじめ」が言いか悪いか、そんなことくらいどんな子どもだって知っている。それは「戦争がいいか悪いか」と問うアンケートなどと同じくらいはっきりしている答不用の問いだからである。もしかしたらいじめている本人だって知っていることだろう。それでもなおいじめはなくなることはない。今問題となっているのは小学生や中学生の自殺などを契機にしたものだけれど、セクハラやパワハラ、アカハラ(アカデミックハラスメント)などなど、大人の世界だって弱いものをいじめる事例は古今東西事欠くことなどない。つまり「いじめ」は、基本的には人間であることの一つの現象なのかも知れないのである。

 いじめによる自殺事件は6年前の2006年にも大きな話題になった。2005年9月、北海道滝川市の小6女児がいじめが原因で自殺したことが2006年10月に明らかになり、同じ月に福岡県で中2男児が同様にいじめで自殺している。このときも世間は大騒ぎしたはずである。教育委員会はもとより文科省も含めていわゆる「いじめ対策」なるものが協議された。「再発防止」が真剣に議論され、学校も先生も教育委員会もその必要性や対策不足を身に沁みて感じたはずである。だが僅か6年後、あいも変わらず教育者から聞こえてくる言葉は「いじめがあったとは認識していない」、「いじめが自殺につながったとは認められない」などの同じ答えの繰り返しだけである。

 学校にとって依然としていじめは常に「我が校には存在していない」が不文律として定着している。だから「存在しないものは調査する必要もない」し「対策を講ずる必要もない」のである。だが、「いじめ」はどんな場所でも、どんな年齢でも常に存在することを、教育者たちはどこへ置き忘れてしまったのだろうか。学校が「いじめは存在しない」と言っているのは単に「知らない」だけか「知ろうとしない」だけか、もしくは「知らない振りをすることでいじめの不存在を擬制している」だけのことでしかないのである。

 何をもって「いじめ」と認定するかはとても難しいことではある。文科省の定義のように「『子どもが一定の人間関係のある者から、心理的・物理的に攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの』で、『いじめか否かの判断は、いじめられた子どもの立場にたって行なうよう徹底させる』」ことだけの文言で簡単に認定できるものではないだろう。いじめられた子どもを中心に考えるとしても、人を好きになると同じように嫌いになることだって人の意識としては正しいことだろうから、それをいじめと感じるどうかは程度の差であるかも知れないからである。

 だからと言って「判定がむずかしい」ことをもって、ある事例を「いじめでない」ことにしてしまうのは誤りであろう。私たちはどうしても「客観的にいじめと認められる」ことを基本に、いじめの範囲を狭く解釈しがちである。だからいじめの認定も対応も放置され、解決が難しくなってしまうと思うのである。

 私は、「いじめられたとする訴え」やもっと些細な「ノートにいたずらされた」、「靴箱から靴がなくなった」、「最近元気がない」、「友達との遊びが少ない」などなど、「違うかも知れないけれど、もしかしたらそうかも知れない」ような事例を、学校があえてすくい上げる姿勢をもっと強くしていく必要があるように思うのである。結果的に大げさな取り上げになってしまうかも知れないし、場合によっては針小棒大に考え過ぎた結果を生んでしまうかも知れない。それでも「大げさに騒ぐ」ことは、その事例の解決のみならず、新しく起きるかも知れない「いじめ」の防止にもきっと役立つはずである。

 もちろん場合によってはいじめられていないのに「いじめられた」と親や先生に訴えるような、新しい形の「いじめ」のスタイルが発生するかも知れない。また訴えの中には「いじめられたことを偽装するため」や「嫌がらせの事実を誇張するため」に自殺するようなケースだって起きないとは限らないだろう。でもそうしたいじめの偽装は学校が「いじめの事実」について真剣に取り組み、その経過や結果を本人はもとより加害者とされた者や父兄や場合によっては第三者にもきちんと分かるように公表していくことで、自ずから解決できていくのではないかと思うのである。

 少なくとも「いじめられた、いじめられているのを見た」などの訴えがあったときは、まず「いじめがある」との前提で取り組んでいく必要があるだろう。たとえそれが結果的にいじめでなかったとしても、そうした空振りは次に起きるかも知れないいじめ発生の芽を摘む予防の役目を果たすことになると思うのである。
 いじめの訴えや疑いから逃げようとする大人や周囲の保身こそが、いじめを培養するもっとも栄養豊かな素地になっているような気がしてならない。


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                                     2012.10.23     佐々木利夫


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いじめ解決策などない?(2)