大津市のいじめ問題でネットが炎上していることはつい少し前に書いた(別稿、「私刑の時代」参照)。その後間もなくオリンピックが始まり、オスプレイの沖縄配置、アメリカ大統領選挙、ノーベル賞受賞者発表などが画面・紙面を賑わすようになって、いじめの問題は急速に姿を消しつつある。いじめとは一過性のテーマではなく、人としての尊厳であるとか教育などに関わる重大なテーマだろうと思っていたけれど、人の関心とはこの程度のものかと、いささか落胆するような状況が続いている。

 ところでこの大津でのいじめ問題に端を発して、朝日新聞は著名人による一言コラムとも言うべき特集記事を連続して掲載した。「いじめられている君へ」、「いじめている君へ」、「いじめを見ている君へ」と子どもたちの立ち居地を変えながら、毎日色々な人が色々な意見を書いている。気になるテーマだったのでそれなり熱心に読ませてもらった。だがどれもこれも具体的な解決策にはなっていないような気がしてならなかった。精神論や正当意見などは繰り返されるけれど、「今現実にいじめられているその子」がそのいじめから解放されるような助言が一つも見当たらないことにいじめの難しさを感じてしまったのである。記事の中からいくつか拾い上げてみよう。

 「・・・個人の考えは一人ひとり違う。それでも恐れずに自分の気持ちを(相手に)伝え、話し合うことが、いじめを脱する一歩なると思います」(AKB48のメンバーのひとり)。ああ今時の若者もまた「話せば分かる」という幻想の中に自分を置こうとしている。昭和初期の五・一五事件で凶弾に倒れた犬養健首相の時代から人は少しも進歩していないのである。

 「・・・友人関係がうまくいかず、いじめがひどいなら、学校を休んじゃおう。いじめる連中は弱みにとことんつけ込んでくる。・・・休めば先生も心配する。それでダメなら転校だってできる」(冒険家)。本当にそうなのだろうか。本当に学校から逃げ出すことしか手がないということか。

 「(いじめている子どもに)あなたのやっていることは正しい?。あなたは今、人生の目的が見つからずいらだっているかも知れない・・・」(歌手)。そんな感傷論でいじめる側が反省すると本当に思っているのだろうか。

 「・・・痛みを感じるのは拳をふるう方であってほしい。・・・いじめは自分は痛まないけれど何も解決しないよね」。それは大人のいじめ反対の結論ありきからの意見でしかない。いじめはいじめることで、きっとその場ではスッキリするんだと思う。いじめた側はいじめたことをすぐに忘れてしまうことからそのことがよく分かる。

 「嘘をついてください。まず仮病を使う。そして学校に行かない勇気を持とう。・・・上手に嘘をついて生きていけばいいんだよ。・・・その先に『ああ、生きていて良かった』と思う社会が必ず待ってます」(漫画家)。嘘も方便を知らないわけではないが、上手な嘘で社会を泳ぎ生きていくことを、この大人は本当に子どもに教えようとしているのだろうか。

 「私もいじめられた。隠れていて木の棒で相手の足をなぐった。相手は強くもない連中・・・、いじめをやめさせるには肉体的な恐怖心を与えるのが一番」(イラストレター)。つまりはいじめられたら肉体的に報復せよということなのだろうか。

 「アイドルでもスポーツでも、何でもいい。つらい状況に追い込まれる前に夢中になれるものを見つけて自分の心を豊かに・・・」(作家)。結局は逃避と我慢の中に自分を追い込んでいくしかないということか。

 「一人になって読書しよう。孤立してもさみしくない。本さえあれば・・・」(教育者)。私にはこの助言が、結局いじめられる側を突き放しているかのようにしか感じられない。

 「(いじめる側に対して)まともな人間になれ、相手の痛みを知れ、いじめるのは未熟で半端な人間だ」。それはそうだ。こんなこと言われなくたって知っている。こんな言葉を何度繰り返したところで解決しないことくらい、人は過去から学ばなかったのだろうか。

 「学校って、ひどいいじめを我慢してまで行く場所じゃないです。勉強は学校の外でもできますから。インターネットを使って、いじめがあることを学校の外に知らせるのもいい。マスコミや、頼りにできる大人に届くように。あなたの名前は書かなくていい・・・、ネットに書くことはチクることじゃない。社会への問題提起であり、称えられるべきこと・・・」(作家)。親や先生や回りの大人たちの、信号を受け取る側がなんにもしてくれないことを子ども自身が知っている。そんな時にこうした手法はどこまで有効だと考えているのだろうか。

 「いじめは犯罪です。それを見ていながら黙認しているの犯罪者の共犯です。・・・いじめっ子に立ち向かうのは怖い? みんなでやれば怖くなんかありません。私は実際・・・やられている子たちを20人以上集めて・・・神社の境内で待ち伏せて・・・こてんぱんにやっつけました。・・・」(歌手・エッセイスト)。いじめる側が少人数であることに便乗して大勢で暴力で報復することを彼は推奨しているのだろうか。それが解決になると本当に思っているのだろうか。

 「いじめている子には将来バチがあたるよ」(映画評論家)。解決は将来の神頼みに委ねるしかないのだろうか。いじめは今の、この身に起きている現実の被害だというのに。

 「(見ている君へ)本当に強い人には自分の意思がある。あなたにも早く夢中になるものが見つかればいいと思います。そうすれば周りの声も気にならない。いじめられている人を見ればかわいそうと思うでしょ。・・・今のあなたは自分を持って生きていますか」(芸人)。これはまさに大人の抽象論でしかない。いじめられている人が目の前にいる現実に、こうした意見がどこまで意味があるのだろうか。

 「『いじめを受けたら誰かに相談して』というメッセージは無意味なんです。そもそも、人に話せる子はいじめられないんだから。・・・いじめられるのも悪いことばかりではないということ。今だから言えますがいじめっ子には感謝しています。・・・いじめに耐えることができるのは、本当は一番強い人間なんだよ、と」(医師・作家)。将来の糧になるのだから、今は耐えよう。そんなことで解決すると思っているのだろうか。この人の目線もまた、成功した自分の今を基準にいじめられていた昔を楽しんでいる。

 「家出をしよう。・・・それは無理でも空間を劇的に変えることはできる。自分を苦しめている世界から脱出してみよう。そうすれば必ず、今いる世界がちっぽけに思えてくる。・・・一ヶ月も君が行方をくらませば、学校も親も大騒ぎする。・・・帰ってきたら、きっと何かが変わっている。・・・家出をしよう」(政治学者)。彼は実体験をもとに書いているが、どこまで真剣にいじめられている子どものことを考えているのだろうか。

 こんな話は延々と果てもなく続く。この特集は本になって近く出版されると聞いたから、恐らく数十人からの投稿になっているのだろう。この記事を私は毎日きちんと読み続けていたわけではない。だから「はたとひざを打つような名案」が出ていたにもかかわらずもしかしたら見逃してしまったのかも知れない。ただ私の知る限り特効薬じみた提案はひとつも見当たらなかったような気がする。

 私はこれらの意見が変だとかおかしいと言うつもりはない。恐らくどの人も、たとえその意見が抽象的であろうとも、はたまた突飛で独善で独りよがりだろうとも、その人なりに真剣に考えた結果なのだろうと思う。ただ、多様な意見がありながらこれと言った決め手を欠いていることに、「いじめに解決方法などないのではないだろうか」と思ってしまったのである。

 そして同時に、この多くの意見もまた一種のサクセスストーリー、つまり成功譚の一種にしか過ぎないのではないだろうかとの疑念を抱いたのである。なぜなら、結局「私はこうしてうまくいった」、「これこれをしたことによって、今の私がある」などに終始しているように思えたからである。世の中、成功体験だけに囲まれて出来上がっているわけではない。「やってみてこんな報復を受けてしまった」、「やり方に失敗して人生を台無しにしてしまった」、「誰にも聞いてもらえず自殺しました」などなど、失敗の事例はこうした解決策を投稿した者の数十倍、数百倍もあることだろう。それはきっと「いじめられっ放し」のまま放置されてしまった子が山ほどいるということでもある。(続)


                            「いじめ解決策などない?(2)」へ続きます(作成中)。


                                     2012.10.20     佐々木利夫


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いじめ解決策などない?(1)