医者については自分との関連も含めて色々書いてきた。そして最近担当が代わった医者の反応について、どこか人間として冷たいような気がすると書いたばかりである(別稿、『遠くなる梅ちゃん先生』参照)。これはその同じ医者と最近交わした話についてである。

 通院は7年前に起きた脳梗塞の再発防止の投薬を受けるためである。薬をきちんと服用しないと「再発の可能性がある」、つまり「再発するかも知れないからちゃんと毎日飲め」と医者から事実上脅迫されていることもあって、無期限の服用を覚悟で病院通いを続けている。
 ところが、ところがである。毎朝食後に一錠を欠かすことなく飲んでいるのだが、同じ行為を数年も続けていると、いつの間にか薬が余ってくるのである。原因ははっきりしている。単なる飲み忘れである。腕時計のアラーム機能を利用して薬の服用を忘れないようにしているスパイ映画をどこかで見た記憶がある。服用の忘れが命にかかわるような薬ならば、そうした失念防止強制装置も必要になるとは思うのだが、私の場合はそれほど深刻なものではないらしいので、そこまでの仕掛けはしていない。

 そうは言っても、どうでもいいような薬ではないらしいので忘れないように心がけている。それでもついうっかりとか二日酔いなどが重なって、数ヶ月に一錠くらいが余ってくる。医者からは、仮に朝食後の服用を忘れてもその日のうちならば昼食後でも夕食後でもかまわない、ただし2日分まとめての服薬ダメと指示されている。そうしたとき、例えば次の日の朝食時に前日の飲み忘れに気づいた場合は、残念ながら手遅れになる。目の前の一錠は確実に余ってしまうことになり、その始末は繰り越すこと、つまり一日遅れの順送りの服用に使うしかないことになる。そして3日分の累計飲み忘れは、3日分の順送りになるのである。

 医者は飲み忘れなどないものとして私に尋ねることはないし、患者である私もその事実を報告していなかったこともあって、次の診療日までに対応した日数分の薬をきちんと処方してくれる。そしてとうとう、その余った薬が10数日分になってしまったのである。まあ数年間で10数日だからまじめに服用していることになるとは思うのだが、余っていることに変りはない。その結果今日処方された薬は、10数日後にならないと我が体内に取り込まれるチャンスが巡ってこないことになるのである。数十日分をまとめてもらっている薬だから、10数日遅れたくらいで薬の効果が弱まったり変質したりする心配はないだろう。しかし、一日2錠の服用が禁じられている条件の下では、この10数日を私の努力で解消することは不可能である。

 そこで私は医者に対して、飲み忘れが重なって10数日分残っていること、次回の診察日までの薬の処方は対応する日数よりも10日分少ない投薬量にしてもらえないかを依頼したのである。医者の答えはあっさりしたものだった。「忘れると危険ですよ」も「忘れないように毎日服用して下さい」もなく、あっさりと「いいですよ」の答えが返ってきただけだったからである。そして私は、それに次いで医者の口から出た言葉にいささかショックを受けたのである。それは「余ったら捨ててしまってもいいですよ」だったからである。

 薬に信仰を持てなどというつもりはさらさらない。でも患者は薬には一定の効果があると信じて服用しているのである。だから薬を処方する医者ならば、薬の効果に対する一種の敬意というか信頼を持たなくてどうして医者と言えるだろうかと思ったのである。その医者は確かに、この薬は効果があるのだから継続して服用するようにとの指示を私に与えた。私はその指示を守り、かつ効果があるだろうことを信頼して私は毎日一錠を休むことなく服用し続けてきたのである。

 恐らく医者はその薬について、「飲んでも飲まなくてもどうでもいい」と思ったわけではないだろう。毎日毎日の服用なのだから月に一度くらい服用を忘れたところで体調に大きな影響はないだろうと思ったのだろう。そして服用すればその薬は体内に消えてなくなるのだから、それと同じような現象を形成する「捨てる」という行動とそれほどの違いはないと思ったのかも知れない。結果としての現象に違いはないだろう。仮に服薬を忘れたことがなんらかの体調の変化につながったとしても、「飲まなかった」という事実は変えられないのだし、時間を遡って服用することなど不可能だからである。

 飲み忘れに対する医者の指示は、理屈だけを考えるなら次のようになるだろう。第一は「重複して服用させる」であり、第二は「絶対忘れないようにするための何らかの脅しか手段を講じること」である。そして第三が「忘れても重複して服用しない注意を与えること」である。私は詳しくは知らないけれど、第一の方法は間違いのようである。つまり昨日忘れたから今日まとめて二日分飲むというのは、どんな薬に対しても禁止されているようである。

 だとすれば、その薬の服用がどうしても毎日必要な場合であるなら、例えば強制的に入院させてでも病院が服用を管理するか、それとも「毎日きちんと飲まないと死ぬぞ」と脅しをかけることであろう。私の場合はそれほどのケースの薬ではなかったのだろう。医師としては毎日定期的に服用して欲しいけれど、仮に月に数回程度の飲み忘れであるなら、「忘れないように」との注意喚起をすれば足りる程度の投薬だと思ったのであろう。

 医者が私から、何年も同じ薬の処方を受けていて、その結果として10日分ばかり薬が余ってしまったという話を聞いたとき、どんなことを思ったのかそれは分からない。分からないから勝手に想像するしかない。善意に考えた最良の選択は、「余った薬が新旧混在していて、場合によっては数年前に処方した有効期限の切れてしまったものを服用してしまう恐れがあるかも知れない」と考えたことである。

 もう一つは、それほど高価な薬ではないので、10数日分くらいなら仮に捨てても患者の経済的負担になることはないだろうと考えたことである。確かに投薬されているのはジェネリック薬品で、しかも私の治療は70歳以上の老人医療だから経済的な負担など無視できるほどに小さいのは事実である。

 医者の考えがどこにあったのかについて私に知ることはできない。もしかしたら「古い薬を飲まないように、忘れたことに気づいたらすぐに捨ててしまいなさい」と思ったのかも知れない。ただ、そうであるなら、そのことをきちんと患者に伝える必要があると思うのである。「捨てる」という結論だけを伝えるのは、「そこまで気が回らなかった」というのを超えて、間違いであるように感じる。

 私はこの「捨ててもいい」との言葉に、私に対して処方している薬だけでなく、薬という存在そのものに対する医者の持っているべきであろう信頼とか尊敬とかが欠けているように感じたのである。繰り返すけれど、だからと言って薬に対して信仰のような思いを抱けというつもりはない。何千、何万もある薬である。薬効も副作用もそれぞれに持っているそれぞれに個性ある薬である。
 それでも病院にとって「薬」は一つの商品である。仕入れ値と売上価格の差が利益を生み、それもまた病院の経営を支える大きな要因になっていることは否定できない。

 それでも自動車でも電器でも、様々なメーカーが自社製品に愛着を持ち、小売店が少なくとも自分の店で扱った商品には一種の信頼を持って販売しているように、医者もまた抽象的かも知れないけれど「薬」という観念的な商品に対して、自信や信頼を持ってほしいと思ったのである。そしてもし仮に患者が「この薬を捨ててもいいですか」と聞いてきたときに、治療が終わって必要なくなったものや、期限切れや飲み合わせなどで服用が禁止されるような場合を除いて、せめて「これから処方する薬の量で調整しましょう」くらいは言って欲しいものだと思ったのである。

 恐らく私の担当医は、投薬量の増加が病院の利益につながること、つまり、薬を捨てるのは患者の責任であり新しく薬を出すのは病院の利益にダイレクトにつながることを考えて「捨ててもいい」と言ったのではないだろう。でもこの言葉を医者の口から聞いて私は、どこかこの医者の薬に対する投げやりな姿勢を感じ、同時に医師そのものに対する信頼みたいな気持ちが、少し減ってしまったのである。

 もちろんだからと言って、私がこの医者の診察を拒否して他の病院へ代わったとか、医者の指示通りその薬を捨てたわけではない。その医者に対する信頼を減らしつつも、「日付を管理しながら服用しているので、古い薬を飲むことはありません。10日分減らして下さい」とお願いし、これからも唯々諾々とこの病院へ通うことになるだろうと、密かに感じているのである。なにしろ自宅からも事務所からも、この病院は通院に便利な場所にあるのだから。


                                     2012.9.28     佐々木利夫


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