最近の朝のNHKの連続テレビドラマは「梅ちゃん先生」である。出勤とちょうどうまい具合につながることから、このテレビドラマを時計代わりに我が家を出るのがここ10数年の定番になっている。戦後の混乱期を生きてきた一人のおっちょこちょいとも言える医者志望の若い女性の青春ドラマである。今週は心中未遂の女性患者にインターンとしての役割を越えた思いをかけるヒロインの姿を描き、担当医師をして「医者は患者に人として向うべきことを改めて君から教えられた」と言わしめる、そんな話である。

 そのことに違和感があったわけではない。医療を巡るドラマの多くは、「医者は病気を見ているだけで患者を診ていない」がテーマになっているし、このドラマもそれを踏襲するものだったからである。ただそれを見ていて、ふと我が身に起こった最近の出来事がそれに重なったのである。

 実は私は7年前に脳梗塞を患い(別稿「我がミニ闘病記」参照)、その経過観察とも言える診察を現在も受けている。と言っても基本的には血栓予防(血液どろどろ防止)のための投薬を2〜3ヶ月に一度受けるのがメインだが、年に一度MRI(磁気共鳴影像法)による頭部の検査、それにいくつかの血液検査を加えている。MRI画像は私のパソコンでも見られるようにCDに焼いてもらっているが、眺めたところでもちろんちんぶんかんぷんである。まあ医者から血液検査結果も含めて「今のところ異常ありません」と言われて安心する程度の検査である。

 ところで7年近く診てもらっていた医者が今回変更になった。病院内での担当が代わったというのではなく、従来の医師が大学病院に戻ったので新らしい医師に交代したとのことであった。今度の担当医は30代の若い男の医師であった。そんなことはどうでもいい。老医師が信頼でき若いのは信用できんと思ったことなどないし、むしろ老医師のほうが何となく威圧的で言葉遣いが命令調なのが気になるくらいに感じていたくらいだったから、できれば若い女医さんだったらもっと良かったのにと思ったくらいである。

 ではなぜこのエッセイを書き始めたのかというと、私の担当医の対応とドラマ「梅ちゃん先生」のストーリーとが少し重なるように感じたからである。それは私が新しい医者と初めて対面したときの状況に「おや・・・」と思うことがあったからである。それは特別に変なことがあったわけではない。診察室に入って新しい医師から「今回から担当が代わりました。前の先生からきちんと引継ぎを受けています。よろしく」との挨拶みたいのがあり、診察に入って「検査結果から特に異常はみられません、このままこの薬を飲み続けてください。MRIも血液検査もこれまでの間隔でいいでしょう。次回はいついつ来て下さい」と言われて、「ありがとうございます」と答え、傍らの看護師の「おだいじに」の声を背中に診察室を出た、ただそれだけのことだからである。

 特に違和感のある診察ではなかったし、そのときは何も気になるところはなく診察室を後にしたのである。でも待合室で会計を待っているときに「どこか変だな」と気になったのである。それは新しい医者から「体調はどうですか」とか「何か変わったことはありませんか」と、まるで聞かれなかったことに気づいたからである。目の前のパソコンのモニターには開頭するよりもはっきりとしたMRIの画像があり、数十項目もの血液検査の数値が並んでいる。その映像や数値に限定されるにしろ、少なくとも目の前にいる患者の診察目的たる「脳梗塞その後」に関する診断は十分に得られたことだろう。だからこそ医者は「今のところ異状ありません」との診断結果を伝えたのだろう。

 でもやっぱり私には、この医師からは「病気を見ているだけで患者を診ていない」ことが感じられたのである。患者の気ままな言い分など診断にはそれほどの参考にはならないのかも知れない。なんたって私にしてみれば「体調がどうですか」と尋ねられたなら、足が痛いのも下痢をしているのも、または背中が痒いのや物忘れが気になることだってみんな体調に関することに入るような気がしてしまうからである。もちろん体調の変化の様々について、私なりに病気の後遺症と関係があるかどうかの判断をすることくらいできる。だが勝手に判断してしまって重要な手がかりを医師に提供し損なうことだって考えられるではないか。

 いやいやそんなことではない。医者が患者に「この頃どうですか?」と尋ねるのは、基本的には診察のための情報を得るためだろう。だがそれと同時に医者と患者のコミュニケーションの役目も果たしているのではないかと思うからである。仮に「お陰さまで特に変わりはありません」との紋切り型の返答にだって、様々な役割があるように思うのである。増してや目の前の患者はこの医者にとってみるなら初対面の患者である。カルテでどんな引継ぎがなされているか、もちろん私の知るところではない。それでもこれから継続して診察していくであろう患者のはずである。

 症状とは直接関係がないかも知れない患者の話題に、医者はどこまで付き合っていく必要があるのかはとても難しいことではあるだろう。限られた診療時間内に場合によっては待合室に混雑しているかも知れない患者群を相手にすることを考えるなら、そこに例えば効率、能率みたいな発想が出てくるだろうことを否定するつもりはない。そして場合によっては昼飯の時間をゆっくりとりたいとか、昨日は夜勤で睡眠不足なので今日は仕事を早く切り上げたいと考えることがあったとしてもそれが人として当たり前のことだとも思う。そして患者の多くは、もしかしたら我がままで自分勝手で、しかも病気とは無関係な話題を出してくるかも知れない。

 私たちはともすれば医者にあまりにも完璧を求めすぎているのかも知れないと思うことがないでもない。誤診なんぞ皆無で常に的確な診断を下す医者、そんな医師像を私たちは無意識に抱いているのかも知れない。しかも、そうした理想像には更に慈愛だとか思いやりだとか優しさみたいな、例えば親兄弟や親しい友人にすら求め得ないような完成されたスタイルを重ねてしまう。かくして患者は医師へ、そして医療へ、望むべくもない理想の姿を求めようとしてしまう。

 それはある意味当然のことかも知れない。「『医学』というものが、実は累々と積み重ねられた人の死によって得られたデータの蓄積であって、そのデータを駆使して、目の前にいる患者の苦痛を、何らかの手段で解決しようというのが『医療』という行為である」(「ねじれ、医療の光と影を越えて」P283、志治美世子著、集英社)のだし、それは同時に患者が医師や病院に委ねているのは場合によっては命なのだから、その命に対して最大限の尊重と扱いを求めようとするのは当然の思いなのかも知れない。なんたって、人の命は地球よりも重いのだし、ましてや患者にとってみるなら自分の命なんぞはその重い地球の更に数倍も重いだろうからである。

 ところが現実はそんなふうにはいかない。過疎地域と都会では病院に行き着くまでの時間に差が出てくるし、医療の水準も異なるだろう。そしてまた貧富の差が治療手段や方法の差として現れてくることだって証明なしに理解できることである。医者の資質の差だってそうである。どんな基準で名医と名づけていいのか分からないけれど、へぼ医者と名医の呼称があること自体が、医者にもまた当たり前に能力や資質の差があることを示している。また、脳外科の名医が盲腸炎の名医とは限らない場合だってあるだろうし、耳鼻科の医者に妊産婦が扱えないことだって起きるだろう。そして医者もまた人である。飯を食って寝て、美味いものを食いたいと思ったり、落語を聞いて笑ったり、人を好きになったり、金が欲しいと思ったり、また当たり前に病気にだってかかるごく普通の人間なのである。

 だからつまるところ医療とは、そうした地球よりも重い命と、当たり前の人間としての医者とを、どこで折り合いを付けていくかの問題なのかも知れない。そこのところにどの辺で折り合いをつけ、どこで線引きするのかは確かに難しいことではある。患者はその境界線をもっと我が身に引き寄せようと思うだろうし、医者は様々な思いの中で「ここまで」と患者の思いとは別の線を引くだろうからである。

 でもその線は患者と医者との、真ん中ではないにしても少なくとも間に位置しているはずであり、決して医者の側にぺたりと張り付いたゼロ地点ではないはずである。その「間」としてのゼロでないであろう座標が私には今回の診療から感じられなかったのである。服用している薬にどの程度の効果や副作用があるのかすら私にはきちんと理解できていない。血圧の変化と脳梗塞の再発の関係などについても私の知識はかなり乏しい。だから私が腹が痛い足が痛いと医者に訴えたところで、現在受けている診察とは何の関係もないのかも知れない。それでも初対面の患者である。少なくとも「体調はどうですか」とか、「薬はきちんと飲んでますか」、「気になることはありませんか」などなど、仮に診察に必要な情報の全部が目の前のパソコン画面に示されたMRIの画像や血液検査数値として表示されていたとしても、医者は患者に問いかける必要があったのではないだろうか。

 医者がそうした問いかけを無駄だと感じたのだとするなら、医療を巡る伝説「医者は病気を見ているが患者を診ていない」のテーマは少しも変わらずに私の目の前に再現されたことになる。そしてそれは恐らく大きな意味で医者と患者の信頼関係という、医療の基本的な問題につながることでもあるのではないだろうか。

 NHKテレビドラマ「梅ちゃん先生」は放送期間の半ばにさしかかっている。感覚にしか過ぎないけれどこの主人公は、病気よりも患者に寄り添うことで小さな失敗やおっちょこちょいを繰り返し、町医者として人々に信頼される方向へと展開していくような気がする。
 患者は気まぐれである。我がままである。魔法のようになんでも治せ、そして人情豊かな赤ひげ先生を、患者自身はもとより親族も、病気になっていない多くの人々も含めて心のどこかで望んでいる。それはもしかしたら仮想の世界の出来事であり、場合によってはないものねだりなのかも知れない。ただそうした患者の思いに僅かにもしろ寄り添う思いを抱こうとするのもまた、医者としての必要な資質の一つであるように思う。

 先進医療、臓器移植、IP細胞などなど、どこかで医療は神の領域にまで踏み込もうとしている。それが時代の流れなのかも知れないが、「寄り添い」や「看取り」みたいな言葉が死語にならないような、そんな医療をもまた人は望んでいるのではないだろうか。


                                     2012.6.21     佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



遠くなる梅ちゃん先生