動物を飼うのが苦手である。犬猫や鳥や金魚が嫌いというわけではないのだが、その世話にかまけることが億劫であるというかそうした世話を失念してしまうことの多さに対する後ろめたさみたいな感情が、飼う前から私を苛んでしまうからなのかも知れない。そして動物同様に花壇にしろ、鉢植えにしろ、はたまた切花なども含めて、水遣りなどの手間がかかることなどから花や観葉植物などを飾るのも苦手である。

 にもかかわらず事務所には、なぜか大きな花瓶と一輪挿しが一つずつ存在している。花瓶のほうは我が家にいくつかあった中から傘立て代わりに持ち込んだものなので、用途や目的などからするなら花瓶とは言えないかも知れない。そうは言っても濡れた傘を花瓶にさすようなことは滅多になく、事務室内に広げて乾くのを待つことの方が多い。その結果花瓶にはもっぱらモップや玄関ぼうきなどが逆さまに突き立てられているので、岩見沢の「こぶし焼き」と銘打たれたずっしりとした手ごたえの花瓶に対して、どこか申し訳ないような気がしている。

 ところでもう一つの一輪挿しであるが、どこから手に入れたかまるで記憶がない。それほど高価なものではなさそうなので、恐らく百円ショップあたりの商品のような気がしているのだが、自分で買った記憶がない。もしかしたら誰かから一輪挿しごと花をプレゼントでもされたのだろうか。一輪挿しなので手のひらに乗るくらいの小さくて軽いものである。だから特に置き場所に困るようなことはないので、台所に隅になんとなく放置してあった。

 だが放置してあると言っても毎日目に触れるものだから、目障りというわけではないものの次第にどこか気になる存在になってくる。だったら燃やせないごみとして処分してしまうか、それとも戸袋の奥など目に付かない場所にしまいこむことで整理はつくのだが、一輪挿しという一つの完成された品物を、壊れていないにもかかわらずその用途を放棄させてしまうというのもどこか踏ん切りのつかないものがある。

 ところで通勤ルートの途中に比較的安売りで人気のある小さな花屋がある。商店街の花屋なのだからもちろん胡蝶蘭であるとかバラなど高価な花も置いてあるのだが、一方で100〜200円くらいの切花も道端に見えるように数多く並べてある。毎日のように通り過ぎるのでそのたびに「事務所に飾ろうか」とどことなく心が迷うのだが、先にも書いたようにきちんと世話をするのがどうにも苦手なこともあり、それを思うとなかなか手が出ない。しかも切花なのだから例えば正月飾りの松や長い期間赤く色ずついているほおずきなどのように葉や実を楽しむのと違って、数日を待たずにしおれてしまうだろうことは目に見えている。ましてや水を取り替えるなどの手入れが忘れがちなこの身にしてみればなお更のことである。

 つまりせっかく花を買ったとしてもそれほど鑑賞することもないまま忘れられ、気がついた時には干からびていたという状況になるのは必至である。だとするならそもそも買うこと自体、代金の無駄である。とは言いつつも毎日通り過ぎる花屋の前のとりどりの花を眺めるにつけ、どこか迷っていたのは事実であった。

 さて春になって櫻の時期が過ぎると、北海道は一斉に花の季節になる。本州ならばそれぞれの花にそれぞれの季節があるのだろうけれど、北海道は梅も櫻もたんぽぽもライラックもごちゃ混ぜにあっと言う間に花の季節になる。それで道端の草花をこの一輪挿しに添えてはどうかと思いついた。バラやボタンなどのように豪華な花ではないにしても、道端の小さな花々のほうが一輪挿しにはふさわしいのではないかとふと気づいたのである。

 道路は車の通り道はもちろん歩道にいたるまで完全にアスファルトやコンクリートで舗装されている。だから土などどこにもないように思っていたが、歩いてみると建物の脇や小さな公園や街路樹の陰など、小さいながらもそこそこの草むらがそこいらに点在していることが分かってくる。

 もちろん近くに住む人たちが手入れしている歩道脇の小さな花壇などもあって、わざわざ植えたり毎日水を遣ったりしているから、そんなところは対象外である。だが校庭の周りや区役所の裏通りなどなど、探してみると野草の茂っている草むらというのはアスファルトに囲まれた都会にも驚くほど多く見つかる。

 試しにタンポポを摘んできた。子どもの頃は黄色の首飾りなどを編んだ記憶もあるのだが、そこまでのたくさんのタンポポは道端には咲いていないようだしそこまでやるつもりもない。でも一輪挿しにさすためである。花にも命がある、などと道学者ぶることもあるまい。事務所に着くのは午前9時ころなので黄色は満開である。そして気づいたことがある。夕方になるとタンポポはその花ビラを閉じ、朝事務所に出てくるころには再び満開になって出迎えてくれるのである。葉もつけずに茎からむしりとられた無残な姿にもかかわらず、タンポポは窓からの日差しに忠実に反応しているのである。

 そのことに命の不思議さを感じるほど私の情感が素直だったわけではない。切花だって数日間は咲き続けることくらい当たり前のことだからである。ただそれでも単に「花が咲いている」こと以上に、窓辺からの明るさによって花びらが開いたり閉じたりすることに、何となく「命のけなげさ」みたいなものを感じたのは事実であった。そしてそのけなげさに引かれて、毎日の水の取替えなどが朝の小さな日課の一つになったのである。もちろんそれだけのことである。数日を経ずしてそのタンポポは朝の事務所で私を歓迎することなどなくなり、閉じたままにしおれていった。

 それでもこうした経過は私に一輪挿しへの興味を続けさせる動機になった。しおれた花を生ごみと一緒に処分してしまうことにはどこか後ろめたい気持ちが残るし、新しいタンポポやライラック、クローバーやようやく咲き始めた野菊などを指先でへし折って事務所へ運ぶことにも一種の残酷さを感じないわけではない。しかもそうした一輪挿しの花々をちゃんと見守っているかと問われるなら、朝の水替えはほぼ欠かさないものの、日中はすっかり忘れていることが多いからなお更である。

 今朝の手折った花は「立葵(タチアオイ)」である。野生種ではないような気がするけれど、それでもこの時期になると、夏の盛りを喧伝するかのように道端にまで咲き誇りだしてくる。葵の花について書いたのはもう4年も前のことになるけれど(別稿「葵の花の低ければ」参照)、この花にはどことない幼い頃の思い出が残っている。そんな思いもあって小ぶりなのを摘んだつもりなのだが、それでも一輪挿しの花としてはいささか大き過ぎるようだ。別の小ぶりな花を探そうかと、いつまで続くか分からないけれど一輪挿しにふと目をやり道端の名もない草花に視線を動かす通勤がまた明日から始まる。

 次の日の出勤。昨日一輪だけだった葵の花が、ドアを開けた私に真っ赤な花を二つにして迎えてくれた。小さな花瓶の水も僅かだが確かに減っている。ちゃんと生きているのである。
 でもさ、もう一回言っとくけど、決して生命の姿に感動したわけじゃないんだってば・・・・・


                                     2012.7.16     佐々木利夫

 追補 7.24朝、一輪挿しの葵は三つの花になって出迎えてくれました。生きていることの自己主張が少し切なく感じられます。


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



一輪挿し