こうしてホームページに自称エッセイ(その実、へそ曲がりの雑文)を発表し始めてから、かれこれ9年を過ぎるまでになった。インターネットのシステムなどがどんな仕組みになっているのか皆目見当がつかないけれど、毎週書き連ねている作品数もあと数ヶ月で900本を数えようとしており、そうした努力に応えてくれるかのようにあちこちの検索エンジンも懸命に私のキーワードを累積してくれていっている。そのせいもあって閲覧数も毎月1万件を超えるまでになっていて、我ながら驚いている。

 もっともこの閲覧数は単に私のページをクリックしただけのカウント数を示しただけのものであり、決して内容に立ち入ったものでないことくらい、私自身あちこちへのネットサーフィンを繰り返している経験からして了解はしている。それでも多くの人が私のページをアドレスつきで引用してくれたり、感想文や意見などをメールで寄せてくれたりするので、それなりの励みになっている。

 さて数ある発表の中に、「よらしむべし、しらしむべからず」の言葉が本来の意味から外れて理解されたまま流通しているのではないかと書いたことがある(別稿「よらしむべし、しらしむべからず」参照)。そしてその文章の一部に、「(政治討論を)あんまり一生懸命聞くことなどないのだが・・・」という一節が含まれていた。この記述について閲覧した読者から、「『一生懸命』という用語をブログの第2フレーズで使用されていますが、これは、言葉の変遷を認めた上でも『一所懸命』と表記すべきではないかと、当方は考えています」との意見が寄せられたことがある。

 まさに事実としては指摘のとおりであった。この語の本来の用例はまさに「一所懸命」であり、「一生懸命」を使うのは誤用である。しかも私はこのエッセイの中で「よらしむべし・・・」の意味が誤用されていると嘆いていたのだから、そんな中で自ら誤用の用例を使ってしまったのは反省すべきなのかも知れない。だが、私はどこかで「一生懸命」を誤用ではなく時代が作り上げた新しい言葉の創造、つまり「造語」として認めていいのではないかとの気がしているのである。もちろんそうした意味をきちんと説明した上で使うべきだったことの責任は当然私にあるのだが。

 一生懸命が一所懸命から派生したであろうことは、言語学的に研究したわけではないけれど極めて常識的に理解できるし、そうした意味の解説を述べた本も読んだことがある。でも一所懸命の語は、その語が本来持っているはずの意味が私たちの生活と乖離してしまっているのではないかと私には思えるのである。そのことは漢字そのものからも私には実感できるような気がしている。「一所懸命」はまさに「一所」である。だからその表記の意味は「一つ所」に懸命に力を注ぐことを意味しているのではないかと思えるからである。

 一所とは畑や田んぼである。その一所で自分が生まれ、育ち、そして家庭を持ってやがて死を迎えるまでの生涯をその地で過ごすことが当たり前であった時代に生まれた言葉である。歩くしか移動手段がなく、また他の地へ移動することは領主からの逃亡であり同時に生活の糧を失うことなどを意味していた時代の言葉である。そうした時代から現代は大きく変貌した。外国への移動の自由は多少制限されてはいるものの国内では自由であり、職業選択の自由にいたっては憲法で保障されるまでになっている。

 つまり私たちは名実ともに土地からの束縛から解放されたのである。もちろんそうした開放には、自由であることともに責任が伴うであろうことは否定できない。その「一所」からの離脱は、多くの場合農家ならば離農を意味するだろうし、サラリーマンや商人とてもその地から離れた転職や廃業を意味することでもあっただろうからである。そしてそれはまた、家族や知人との長い別れを意味する場合だってあったかも知れない。

 それでもなお、私たちは一所懸命の時代から比べるなら、土地のしがらみ、つまり「一所」からの解放を自らの意思で選択することのできる自由を得たのである。たとえその一所の意味する範囲が「田畑」から離れて、終身雇用を背景とした「会社への一身専属」にまで拡大していったとしてもである。

 恐らく言葉としては「一所懸命」が正しいのかも知れない。でも私の気持ちの中では、この言葉を「一つ所」に力を注ぐのではなく、目の前の役割に汗水流して懸命に取り組むこと、選んだ人生を自分や家族のために懸命に努力することの意味に使いたいと思うのである。それは決して土地や会社にしがみつくのではなくて、どんなことにでもひたむきに向きあうことであり、それは一所とは無関係なひたむきさ、そんな意味を持たせたいと思うのである。

 そうしたとき、「一所懸命」の語はどうしてもそのイメージにそぐわないのである。「一所懸命」はその表記された漢字の持つ意味を離れ、一つの抽象語として「一生懸命」の意味をも内包しているのかも知れない。「ありがとう」だって、「さようなら」だって、「有り難し」や「左様ならば」の意味から乖離して使うようになっているのだから、一所懸命の概念も時代につれて変わってきていると理解すべきだと言われるならそのとおりなのかも知れない。

 それでも「一所懸命」と「一生懸命」には、余りにも平易な言漢字が使われているからなのかも知れないけれど、どうしても字面にこだわる気持ちが私の中で抜け切れないのである。一所懸命にはどうしても田畑を耕すことの意味に思いがとらわれてしまうのである。「一所懸命」の文字からはどうしても「一生懸命」の意味が、少なくとも私には伝わってこないからである。

 だから私は「一所懸命」を使いたいような文章を作るときには、可能な限りこの二つの四文字熟語の出番がないよう、他の語で言い換えるように心がけているのである。そしてどうしても使いたい状況になったときには誤用と知りつつ「一生懸命」をふさわしい熟語としてあえて登場させてることにしているのである。私の中では一所懸命はすでに死語になりつつあり、それに代わって一生懸命が新しくその地位を確立してきている、そんな風に思っているのである。それはつまり、「一所懸命」と「一生懸命」とは、似ているけれどまるで意味の異なる独立した熟語になっていると思っていることでもある。


                                     2012.3.22     佐々木利夫


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