子どもがどんな場合も純真であるとは限らないことくらい知っているつもりである。それでも私たちは、あどけない子どもの笑顔に、私たちが失ってしまいどこかへ忘れ去ってしまった穢れなかったであろう過去の思いを重ねてしまおうとする。それはもしかしたら未完成の中に、可能性としての夢の実現を見ようとしているからなのかも知れない。

 これまでも子どもの詩などを通じて、私たちが失ってしまったであろう思いを書き連ねたことがある(別稿「子供の詩」参照)。だから子どもの純真さは私たちが無意識に望んでいる単なる願望であって、そこに過大な期待を寄せることは間違いなのかも知れない。

 それはそうなんだけれど、やっぱり子どもの幼さを営業的にしろ、場合によっては社会正義を裏付けるような手段にしろ、大人が利用しているような風景に出会うと、どこか苦々しく感じてしまう。

 こんな記事を読んだ。

 「『東京の電気をつくってきたのに、なぜ私たちがつらい目にあうのか分からない』。福島の子どもたちが昨夏、政府に訴えた言葉が耳に残る」(2012.3.14、朝日新聞、記者有論の経済部記者)

 言ってることは正論だと思うし、記者が感じたであろう思いも理解できないではない。ただこうした論法はどんなことにでも使えるという意味で、実は正論ではないような気がしているのである。こうした論法を認めてしまうなら、不作や不況や公害や事故などのあらゆる被害についてこの理屈はべったりとくっついてしまうような気がするからである。

 たとえば米作地帯は「都会のために米を作っている私たちがどうして・・・」になるだろうし、車を生産している地域の住民は「私たちの乗るためでない車を作っている私たちがどうして・・・」も認めなければならないことになる。場合によっては輸出部品の専門工場の周りの人たちは「輸出先である外国の人ためにどうして私たちが・・・」になってしまうことも認めなければならなくなるだろう。社会は自給自足から完全に離れて専業化分業化が進んでいて、それによって世界の経済が成立している以上、たとえその製品が電気であろうとも「東京の電気を作ってきたのに・・・」を被災に伴う我が身の苦しさに結びつけてしまうのは暴論ではないかと思うのである。

 ところで私がこの記事から感じたのは、そうした論理が破綻しているとの思いについてではない。それ以前の問題として、こうした発想は大人の考えたことではないかと思えたからである。私はこの記者の記事が捏造だと言いたいのではない。私はこの子どもたちの政府に訴えた事実を知らないけれど、そうした発言のあった事実は間違いないことだと思う。

 だから「真実、子どもたちは東京のために発電しているのに被害を受けたのが私たちだけというのは割に合わないと自分たちの意思で考え出した」と言われてしまったら、反論のしようもない。反論のためのデータが私の中に皆無だからである。それにもかかわらず、私はこうした思いの中に大人のズルさみたいなものを感じてしまうのである。子どもだけの素直な感情から生まれた言葉だとはどうしても思えなかったからである。

 こうした例はけっこう世の中には多発しているような気がする。幼稚園児が老人ホームを訪問してたどたどしく歌う、交番にお巡りさんを訪ねて「いつもいつもありがとう」と声を揃える、通学路の空き缶を一斉に拾う、そんな行為が幼稚園児や小学生のオリジナルな発想によるものだとは思えないのである。どこかで大人のそうした子どもの姿勢を利用した思惑が感じられてならないのである。

 イベントへなどへの参加も同様である。受付初日に年賀状を持った幼い子どもたちが並んでポストに投函する記事や、交通安全週間などで警官が通行する車をいちいち止めながら安全運転を訴える傍らに、幼稚園児や小学生が手作りの折り紙などを運転手に渡しながら同じように「安全運転してください」と声を揃える、災害などの募金集めにも同じような風景が繰り広げられる。そんなこんなが、私にはとても子どもたちが自主的に思いついた行動だとは到底思えないのである。

 つい先日の新聞記事である。豪雪の影響で車が渋滞し、材料の調達なのかそれとも出来上がった給食の配送関係なのか分からないのだが、小学校の昼食の開始が遅れたそうである。なんでも給食の到着が30分ほど遅れ、先生たちも総動員で手伝ってどうやら10分ほど遅れただけですんだようである。その状況をテレビが報道していた。そしてそこに映っている小学生がこんな一言をカメラに向かって放ったのである。「おなかが減って大変です。幸せです」。

 メディアとしては給食が遅れたことよりも、豪雪の被害があちこちに及んでいることの一つの症例として取り上げたのだろう。それでもたかだか配膳が10分遅れたことに、それを食べる子どもの口から「おなかが減って大変です」とか「(食べることができて)幸せです」と言わせようとするメディアの意図に私はどこか違和感を感じたのである。

 そしてこの中に私はなんとも言えない報道のいじましさを感じてしまったのである。いじましさといったら少し違うかも知れない。子どもが放った一言についてではなく、そうした報道に恥ずかしさを感じることもなく放映してしまうメディアの姿勢になにかとても惨めったらしさというか、やり切れなさを感じてしまったのである。やらせというのとは少し違うかも知れないけれど、こうした発言を引き出すような誘導がどこかであったのではないかと感じ、そうした誘導はやっぱりやらせの一種ではないかと感じたからである。

 それがたとえシナリオや意図した操作によるものではないとしても、ここを押したらこんな反応が起きるはずだとの思惑があまりにも見え見えに感じてしまったのである。そうした打ち合わせが事前にあったとは思わない。だからそうした意味では「やらせ」とは少し違うのかも知れない。それでも私は、そうした無意識の意図が最初からあったか、もしくは期待している方向への暗黙の誘導があったように思え、それは結局「やらせ」と同じレベルにあると思ってしまったのである。


                                     2012.3.27     佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



子どもへのやらせ誘導