つい最近、テレビで「こまどり姉妹」を特集した番組を見た。何十年ぶりの再会だっただろうか。私が中学生くらいだった頃に一世を風靡した双子姉妹の演歌歌手だった。当時の持ち歌を今でも歌い続けているのだろうか、メロディーも含めてなんとなく記憶のある歌声が流れていた。そして彼女らが現在でも健在で日本中を歌いながら回っていること、つまりいまだ現役であることにいささか驚いたのである。

 そしてもっと驚いたのは、その二人の老いた顔であった。番組の中で73歳と紹介されていたから老人であることは当然であり、73歳にふさわしい顔つきになっていたところで特段驚くほどのことではない。むしろ73歳なのに40歳に紛うばかりの顔つきであったなら、そっちほうがかえって変だろうからである。
 ただ私にとってこまどり姉妹の印象は、そもそもこの歳になるまで歌謡曲には比較的興味がなかったこともあって、中学生か高校生の頃かはともかく、一世を風靡した時代が終わったことで一区切りついていたものだから、今回のテレビ放映は数十年のギャップそのままでのいきなりの対面・再会ということになったのである。

 人の顔に対する記憶というのは、会うたびに少しずつ修正されていくものらしい。久しぶりに会った顔でも、会った瞬間は相手に対して歳をとったなと感じるものの、頭に残る記憶はその人であることの思い出や特徴などの記憶は残しつつも頭のはげ具合や皺の具合なども含めてた顔のイメージなどはすぐに修正されていくようだ。だから次の機会に会ったときでも、その修正された後の顔がすぐに浮かんでくるようになる。
 ただその修正に要する期間がこまどり姉妹の場合には50数年のギャップがあったものだから、そう簡単には更新されなかったということであろう。

 50数年なのだからそれはそうだろうと得心はいったのだが、同時にこまどり姉妹の73歳という年齢が、実は私の72歳と同じであることにも気づいたのである。つまり彼女らの年齢は紛れもなく私の年齢と同じであったのである。テレビなどで老人を訪ねるような番組がある。若いアナウンサーはそのお年よりにマイクを向けて、「おいくつですか」と年齢を尋ね、そして相手の○○歳ですと回答に誰一人の例外もなしに「お若いですね。とてもそのお歳にはみえません」と付け加える。たとえ相手の姿かたちが年齢相応に思えるにしてもである。だから人は若干のぶれはあるにしても年齢相応に歳をとってゆくのである。73歳の顔つきはやっぱり73歳らしい顔なのだし、100歳もまた同様の顔つきになっているのである。

 ところで自分の顔というのはどちらかというと変化に気づきにくいものである。それは日ごと夜ごとに自らの顔を記憶の中で修正していくからなのかも知れない。女性のように毎日化粧をするわけではないけれど、洗面所や机の上や事務所の壁、浴室などの鏡を見るのは日常の習慣になっている。化粧をするためでなくたって、食事や歯磨きなどの残骸が口の周辺に残っていないかとか、ネクタイがきちんと首もとに納まっているかなどなど、鏡を見るのは身だしなみを整えるためのごく当たり前の行動であろう。そのほかにだって髭をそったり髪の毛に櫛を入れるなども含めるなら日に何度となく自分の顔を鏡で眺めるのはごく日常的な習慣になっている。

 そうしたとき、それじゃ口の周りだけを見ているのかというとそうではないし、ネクタイと首もとだけを見ているわけでもない。白雪姫の義母でもあるまいし鏡に写る我が顔つきに惚れ惚れするようなことはないにしても、必ずといっていいほど自分の顔も同時に眺めている。それは自分の顔として認識しているのかと問われるなら恐らくそうではなく、当たり前の顔が当たり前にそこにある、程度の認識なのだと思う。

 恐らく加齢の変化は毎日目に見える形で現れるものではないだろう。理屈の上では皺が深くなり皮膚のつやが失われ頭皮が薄くなり生え際が少しずつ後退していく現象は、事実としては時間の変化に伴うものであるだろうから、昨日の顔と今日の顔とは僅かにもしろ老化へと進んでいるはずである。だがそれはどこがどうだと指摘できるほどの変化ではないだろう。それは昨日の顔の記憶と今日の顔の記憶の対比として認識されるものだからである。だからその記憶の差が数ヶ月、一年、数年と長くなっていくに伴って対比される記憶の差の拡大として、差そのものが加齢として認識されるのだろう。

 かつては自動車運転免許証の写真がその記憶の差を現実の差として示してくれた。そこにあるのはまさに4〜5年前の自分と現在の自分の差だったからである。しかし、マイカーは11年も前の平成13年に手放したし、免許証も平成20年に意識的に失効させてしまった(別稿「運転免許始末記」参照)。だからそうしたギャップを伝える手段も機会もなくなってしまっている。身分証明書代わりに写真つきの住民税基本台帳カードを使っているが、この写真の有効期間は10年近くもあって見比べるようなギャップを直接示してくれるものにはなっていない。確かにカードの写真は数年前のものではあるけれどそのカードを日常的に眺める習慣などないし、また提示して利用するときでも相手はともかく私自身が写真を見ることなどはないからである。

 とはいっても昔の写真をしげしげ眺めることがないからといって私が72歳になり、それ相応の顔つきになっているだろうことの反証になるものではない。ただ毎日の鏡を見る習慣が毎日の私の記憶を塗り替えていっていることは事実であり、そうした現象は少なくとも自分に関連する例えば妻や子どもたちや日常付き合っている仲間や通いなれてるスナックのママさんなどについても同様であって、見慣れた顔にはなかなか加齢を認識しにくいことは明らかである。

 なんだか縷々書いてしまったが、言いたいことはこまどり姉妹の73歳の顔に驚いたと書いたけれど、つまりは己もまた同じように老いさらばえた顔つきになっていることの裏返しでしかないことについてである。「他人様ばかりじゃないよ、自分も同じだけ歳をとっていることを忘れなさんな」と、あたかも自分だけが加齢の埒外にあるような錯覚を取り払いたかったのである。

 そういえば飲み会の帰り道での立ちんぼからの誘いが最近は少なくなってきたことに気づく。飲食店街には路上に二十歳代と思しき女性が何人か並んでいて、なんとか我が店に誘おうと酔っ払いに声をかけてくることも多いのだが、「こんなおじいちゃんはあんまり金持ってなさそうだな」と判定されているのかこの頃はさっぱり声がかからなくなってきたように思える。またつい最近、電車で席を譲られたことがあったがこれは目に見える老人へのいたわりだったのだろうか。また、滑る雪道に転ばぬように気をつけながら恐る恐る小刻みに歩を進める姿勢にもどこか爺むささが感じられなくもない。
 つまり私も自分では老人であることの自覚がそれほどないにもかかわらず、その実態はこまどり姉妹になっていることに気づかされたのである。老いは他者を眺めるという私自身の目を通じて、確実に私自身にも迫っていることが最近のテレビを見ていてしみじみと感じたのであった。


                                     2012.1.28     佐々木利夫


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こまどり姉妹との再会