今年の5月15日が沖縄の日本復帰40年の節目になるとして、沖縄では盛大な記念行事が開催され、また沖縄の位置づけに対する特集番組などが数多く報道された。そのことに何らかの意見があってこのエッセイを書こうと思ったのではない。「あぁ、あれから40年になったんだ」と、ふと我が身をこの節目に重ねてみただけのことである。

 沖縄が日本に返還された40年前とは昭和47年、1972年のことである。私はこの前年の1971年に沖縄へ旅行した。まだ復帰1年前のことであった。つまりまだ沖縄全体がアメリカの統治下にあった時代のことであり、沖縄は外国ではないけれど外国の統治下にある日本の国と言う、どことなく中途半端な状態に置かれていた。九州や奄美大島には自由に行けたけれど、沖縄へ行くにはパスポート、つまり旅行者が日本人であることの証明書が必要であった。しかも私の身分は高卒の税務職員で就職してからまだ10数年という、いわば下っ端の下っ端の国家公務員であったし、所属の長よりももっと上の官庁からの海外渡航の許可を受けることが必要とされていた。その許可は税務署を最終的に管轄する国税庁を超えて、更にその上級機関である大蔵省(現在は財務省になっている)の所属長による承認が必要だったのである。

 釧路に勤務していた私は、まず直接の上司である係長・課長を経由して税務署長に旅行の申請をし、署長は札幌にある国税局へ書類を提出、国税局は国税庁へ、そして国税庁は更に大蔵省へと私の申請書はを回すのである。そしてその気の遠くなるような逆のルートを通って許可、または不許可(不許可になることないとは聞いてはいたが)の通知(具体的には大蔵大臣の海外渡航承認書、内閣総理大臣からの身分証明書)が私に届くことになるのである。その許可がない限り私の沖縄への入国はおろか、そもそも旅行のための休暇そのものが認められないのである。

 沖縄の復帰が旅行の直接の動機になっていたかどうかについてはかなり疑問ではある。旅行は好きだったが、それはどちらかと言うと高校の修学旅行に行けなかったことの反動が大きかったような気がしているからである。クラスで私ひとりが修学旅行に行かなかったわけではないような気がしているし、旅行費用にまでは手が届かない我が実家の家計に不満があっわけではない。むしろ「始めから行けない」のだし、だから「行かない」ことは私の中で当然のこととして了解していた事項だったからである。

 それでも同級生達が交わしている京都・奈良の話にどちらかというと疎外感を感じていたのかも知れず、私の気持ちの中にどこかわだかまりみたいに残っていたのかも知れない。なぜなら税務職員として就職した翌年に私は、父を連れて修学旅行コースと似たような京都・大阪・伊勢・奈良などを旅したからである。そしてその翌年には九州・四国の一人旅へとエスカレートしていったのは、どこかで高校で行けなかった修学旅行への不満を追いかけていたのかも知れない。やがて旅はその翌年には友人と二人で東北を回るなど、やがて全国をくまなく歩いてみたいと思うような気持ちへと変化していった。ただそうした中で海外旅行などは別格として思いつくことなどなかったし、沖縄だって考えたことすらなかった。

 そうは言っても「復帰前の沖縄の姿を見ておきたい」は目的ではないにしても、旅のきっかけにはなっていたのかも知れない。沖縄のアメリカ軍統治の意味などまるで知らないまま、日本だけれど日本でないというどこか中途半端な姿に、できれば復帰前に訪ねてみたいと思う気持ちも多少はあったのではないだろうか。

 そうした思いが、私の沖縄に対する理解の程度と重ねるといかに稚拙なものであったかは準備段階の状況からも分かってくる。恐らく「沖縄に行きたい」と思ったのは出かける一年くらい前くらいからだったと思う。旅行は行き先が決まると観光パンフレットや旅行案内書などから情報を得るのが一般的だろう。だが私が選んだのは岩波新書の「沖縄」(比嘉春潮、霜多正次、新里敬二共著)と「沖縄・70年前後」(中野好夫、新崎盛暉共著)、「沖縄ノート」(大江健三郎)など17冊にも及んでいる。
 とりあえずは観光旅行のつもりである。にもかかわらずこうした書物から沖縄を知ろうとしたことは、戦後を体験しつつ生きてきた者の沖縄に対するどことない後ろめたさみたいなものが私の中に残っていたのかも知れない。そしてもう一つ、沖縄が英語圏だとはまるで思っていなかったけれど、米軍がたむろする基地の町は実は数年前に勤務した稚内で経験していたこともあり(別稿「私のキューバ危機」参照)、どこでどんな場面にぶつかるか分からないとの思惑からだろうか、なんと小型の英語辞書まで用意したのであった。

 出発予定日が近づいてくるのに肝心の身分証明書(パスポート)がなかなか届かず、いらいらした記憶はあるもののどうやら間に合った。何と言ってもまだ沖縄は外国(アメリカ)である。予防接種も必要だし、第一日本円をドルに交換しなければならないなど、事前準備が大変ではあるもののどこかで海外旅行に似た手続きを楽しんでいたような気もしている。
 ともあれ男30歳、家族を釧路に残しての未知の国への旅立ちである。どんな国なのか、どんな生活があるのか、そんなことよりも本島、宮古、石垣、西表、そして遥かに遠い与那国島まで含めた広い沖縄のどこへ、何を見に行くのか、何がしたいのか、そんなことも分からないままの計画である。とりあえずゴールデンウィークを含めた4月22日から5月12日までの20日間という、少なくとも私にとっては前代未聞、そして職場にとっても職員の休暇としては異例の長さの旅立ちが始まろうとしていた。

 旅行の多くは例え行き当たりばったりを主体としても、その地では観光バスを使おうとか、この地ではここへ行こう、ここではこれこれを見ようなどと具体的な計画を立てるものだが、沖縄旅行には到着日から数日間のホテルの予約以外には何も決めなかった。もちろん「ひめゆりの塔」へ行きたいとか沖縄の税務署にも寄ってみたいなどの気持ちはあったものの、まさに徒手空拳の旅立ちであった。

 この旅行については400字詰め原稿用紙130枚ほどにまとめてある。読み返してみると実につたない文章だと思うけれど、それでもその時に感じた様々をそのまま記したものである。それを思い出して、私のホームページの索引の中に、「復帰直前の私の沖縄旅日記」と題する項目を設けることにした。そしてそこへ少しずつ披露していきたいと思っている。文章もつたないけれど、文字もまた実にお粗末で、判読しながらパソコンに打ち込んでいくことになるのでこの先どのくらいの時間がかかるのか見当もつかない。ともあれ何日分かをまとめて一区切りにし、毎週発表しているエッセイの一つとして披露していきたいと考えている。

 仲間などと会話したり知人の書いた文章を読んだりしたりするときに、私が一番苦手に感じるのは孫と旅行の話題である。何と言っても発信者と受け手である私との間に、その話題に関して何にも共通項がないからである。孫のよちよち歩きがどんなに可愛いかろうとも、それはそのじいさん単独のものであり私はその孫とは会ったこともない。旅がどんなに素敵で、山頂から見た景色がこれまでに見たどんな景色よりも美しく、食べた食事がどんなにおいしかろうとも、私が彼とその旅を一緒したわけではないからである。そんな話を数分ならともかくくどくど聞かされたところで辟易するのが落ちである。そんな思いを分かった上で、これは40年前の私が40年後の私に聞かせようとしているのだと言い訳しつつ、私だけのための記録として発表したいと思う。

 1ドルが360円だった時代の遠い遠い昔の話である。最近の外国為替相場はユーロ危機の影響もあって1ドル80円弱を上下している。40年という歳月は社会にとってもそうだろうけれど、私にとってもとんでもなく長い時間を意味している。沖縄は基地依存の体質、国による振興計画への依存から脱して、少しずつ自立への道を歩もうとしている。


                                     2012.5.25     佐々木利夫


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私と沖縄復帰40年