最近のNHKの朝の連続テレビが「梅ちゃん先生」であると書いたのは先々週のことであった(別稿「遠くなる梅ちゃん先生」参照)。そして私の受けた診察と比較して、このドラマの主人公が優しい町医者に育っていくのだろうとの感想も添えた。

 ところが今朝の放送を見て、それが幻想かも知れないとふと思ったのである。もちろんこれはドラマであり、実話とは無関係であろうことくらい知っている。そしてドラマなのだから、それを事実と混同することなどもってのほかであることも理解しているつもりである。それでもこれまでのドラマの進展を見て、この主人公が患者に寄り添った町医者として成長していくであろう、いささかおっちょこちょいの少女のイメージとその成長を楽しみにしていた視聴者としては、どこか裏切られたような感じを受けたのである。

 今週の筋立てはこうである。主人公は町医者になることを密かに決心したインターンから無給医になったばかりの若い女医である。町医者になろうとの決心はあるものの、父の急な入院により心は揺れている。そんな女医のもとに短距離競技で優勝を目指すという意欲満々の、少女ともいえる若い女子学生が風邪をこじらせて入院してくる。その少女には持ちかけたキャラメルの箱を落としたり、渡そうとした手紙を手から落としたりする兆候があって、女医はどこか気になっている。そして患者と対面した女医との会話が今日の放送である。

 女医〜「・・・あなたはギランバレー症候群という病気です。・・・手足のしびれや筋力の低下を起こす病気で、原因はまだよく分かっていないんだけど風邪なんかのウィスル感染症が先行した後に発症することが多いんです」
 少女〜「次の大会に出られる?」
 女医〜(首を横に振る)
 少女〜「しょうがない。じゃあ、その次を目指すわ。頑張って治すから、そしたらまた走れるでしょう」
 女医〜(ゆっくりと首を横に振りながら)「症状が出て一ヶ月経っても治らないということは、このまま完治しない可能性が高いわ」
 少女〜「それじゃあ・・・」
 女医〜「陸上はあきらめてください。普通に走ることはできると思う。でも大会で優勝を目指すということは、とても無理です」
 少女〜「・・・そうなの・・・。そうなんだ・・・。人生ってこんなこともあるんだ・・・。彼氏には振られるし、夢は壊れるし・・・」・・・ 

                            2012.7.5 のテレビ番組から採録

 ああ、何たることか。主人公はこのとき自分を神に仕立てたのである。こんな残酷なことをこともなげに患者に宣言したのである。この病気がどういうものか、そして治療方法はあるのかないのか、どういう経過をたどるのか・・・、私はまるで知らない。恐らく主人公にとってこの病気は、少なくとも検査結果や、文献の調査や、他の医師からの意見などによって、病名も症状も経過も確定させたのであろう。伝えた事実に嘘はなかったことだろう。もしかしたら診断結果をあいまいにしておくことの方がかえって患者を苦しめることになると考えたのかも知れないし、根拠のない希望を与えるわけにはいかないと思ったのかも知れない。

 それでも私は、この女主人公の医者はとんでもない間違いを犯したと思うのである。患者はたとえそれが錯覚かも知れないと思いつつも、「病気は治るものだ」、「治してくれるのは医者だ」との思いにすがりつこうとする。この病気の原因が不明であると自分の口から発しておきながら、その原因も治療方法も将来にわたって解明されることはないことを、まだ無給医である新米の若い女医は少女に向って断定したのである。自分を絶対的な高みにおいてひれ伏す患者に神託を下したのである。

 なぜなら「完治しない可能性が高い、陸上はあきらめて下さい」との医師からの宣言は疑問をさしはさむ余地など皆無だろう見放したことを示している。でも私は思う。この判断は少なくとも医者になったばかりの自らの知識の範囲内から出た、少なくとも現状での判断にしか過ぎないのではないかと。この女医は患者である少女に向かって、その夢や人生を否定するような一言をこともなげに言い放ったのである。女医の放った言葉から患者は何の希望も、何の救いも見つけることなどできない。絶望の宣告を、オブラートにくるむこともなくむき出しのまま投げつけたのである。

 つまりこの女医さんは原因不明とされている病気に対して、自分の知識と経験から得られたにしか過ぎない結論を普遍的な一般論にまで増幅させ、しかも「あなたの病気は世界中のどんな医者にも、これから開発されるかも知れないどんな治療方法や医薬品によっても、またどんな訓練などによっても、治ることはありません」と言い放ったのである。ここには患者に寄り添い、親身になって相手の心を支えようとする気持ちなど少しもないように私には思えてならない。

 前にも言ったようにこれはドラマである。様々な演出が要求される人気ドラマである。患者である少女の嘆きは主人公のこれからのひたむきな生き方強調し、一週間ごとに山場を作っていかなければならないそのための小さなエピソードにしか過ぎない。だからそうした少女の絶望はドラマを際立たせるための演出なのだろう。また、この女医さんは、この少女にこんな形で接したことに明日の放送でも反省し、そうした残酷な仕打ちを少女に与えたことに対して生涯悔やむような展開になるかも知れない。

 そう思いつつも、それでもなお私はこの女医さんの今日のセリフは言ってはいけない一言だったのではないかと思い、それ以上に医者として許せないセリフではなかったかと思うのである。最近読んだ本の中にこんな一行があった。「医師もまた言葉を使う人である」。ソクラテスの言葉だそうである(柳田邦男「『人生の答』の出し方」P214、もっとも彼もこの言葉は日野原重明氏からの引用だと書いている)。この女医さんの一言からは、少なくとも私にはそうした意味での「言葉」が聞こえてこない。
 そしてドラマとは言え、梅ちゃん先生もまた、「病気を診て、患者をみていない」という多くの人が医師に対して抱いている不信の基本から離れることはできなかったのかと悲しく思ったのである。明日からの展開がどうなるかまるで分からない。だが仮にどんな反省が繰り返されたとしても、今日のこの会話が彼女の口から出たということだけで、彼女は町医者になる資格を放棄してしまったのではないかと思ったのである。

 医者に間違いを許さないというのではない。むしろ医者といえども当たり前に間違いを犯すだろうし、そうした間違いに対する反省の上に成長していくのだろうとも思っている。でもそれは間違いとして許容される範囲においてである。この大学病院に勤務する町医者志望の若き女医のこの少女に対する思いは、間違いを通り越して人としての資質にまで及んでしまっているように思えたのである。

 何度も繰り返すが、これはドラマである。ドラマのシナリオに対してとやかく言うことなどないだろうとも思っている。変ちくりんな刑事ドラマや探偵ドラマが山のよう放送されているのだし、そうした脚本なり原作なりにいちいちあれこれ言うのは、言うほうが変なのかも知れない。
 ただNHKの朝のドラマは、時計代わりと言ったら失礼かも知れないが善意や努力や優しさみたいなほんわかしたもので構成され、一日の始まりに抵抗なく受け入れられる番組だっただけに、主人公の立ち居地が急に不確かなものに感じられ、少しがっかりしているのである。


                                     2012.7.5     佐々木利夫

 (追記)7月7日土曜日で今週のドラマは一段落した。この少女は女医の町医者開業を応援し、自らは恋人が戻ってくる形での大団円となった。この少女は女医から宣言された自分の未来を受け入れ、自分の人生から陸上を続けることを放棄してしまったのである。恐らくこの少女が再登場することなどないだろう。そしてこの新米の女医さんはこの少女に対して自分が何をしたのかについて、とうとう最後まで気づくことはなかった。医師と病人との会話とは、単に医学的事実を正確に伝えることだけではないはずである。不安、絶望、悩みや痛みなどなど、抱えている様々を人生として理解し、「言葉」としてつむいでいくこともまた医者の大切な使命だと思うのである。そのことに気づくことなく、来週からこの女医さんは町医者として開業していく。そのことが少し寂しい。


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梅ちゃん先生再び