交差点における衝突防止システムが、どこか人間不在であることが胡散臭いと書いているうちに(別稿『衝突防止システム』参照)、車の運転そのものにまでこうした話題が広がっていることを知った(2013.10.23 19:30 NHKクローズアップ現代「ここまできた自動車運転」)。

 それは交通事故防止を超えて、目的地まで自動的に連れて行ってくれる自動車の開発を目的とするものであった。人と車の関係が変わっていくのはいいだろう。より便利により安全に、そうした方向へ変わっていかなければ車の未来はないとメーカーは言う。そのことに異をとなえようとは思わない。たとえ文明や社会の進化が人間の便利さを追求する一方で、人としての情緒を失う方向へと変化させてきたとの弊害をもたらしたと指摘されようともである。

 でも私には、この運転システムの開発は、どこかで「人の不在」を加速するように思えてならなかった。そしてそれはもしかしたら、人間不在のみならず間違った進化の方向へと向かっているのではないかとも思えたのである。番組は終盤で、「飽くまでも人が運転する」ことが基本であることを強調していた。だが本当にそう思っているのだろうか。観念的には「人」を強調するだろうが、現実に運転している者が自らを「運転する人」として、どこまで自覚を維持できるかに私はとても不安を感じた。

 大儀は分った。人間の不注意による事故を減少させたり交通渋滞の緩和につながると開発者は強調する。そのことに疑問を抱いているのではない。このシステムは前掲の「衝突防止システム」とは異なり、歩行者や他者の電波信号を使うのではなく、赤外線で外部の環境を探知して、それで事故や渋滞の緩和に資するのだそうである。そういう意味では前に書いた衝突防止システムよりは少し人間に近い機能になっているのかも知れない。

 開発者は言う。「人はミスをする」、だから「車の判断と人の判断が異なったときには」、「車が正しいと思ったら人の判断を無視する」ようにプログラムしている。言っている意味は分かる。高齢化で咄嗟の判断が遅れたり、音楽や携帯電話に気をとられたり、またはブレーキとアクセルを踏み間違えるようなことだって起きるだろう。そのことを否定はしないし、「人の判断」よりも「車のプログラムによる判断」の方が正しいことだってあるだろうことを否定もしない。

 でもそうしたときに「車のプログラムを優先する」、つまり「人の判断を無視する」との思いの中に、私はどうにも納得できないものを感じてしまうのである。もちろんそうした結果、コンビニに車が突っ込むような事故が防止され、交差点に迷い込んだ自転車をぶつからないようにかわすことが出来るだろうことを否定するのではない。そしてそれによって運転を人間任せにした場合よりも死傷事故が減少する場合のあるだろうことを否定するつもりもない。

 ならぱ、その方がいいではないか、人に任せたら確実に発生したであろう交通事故を未然に防ぐことができるのなら、人の運転を無視してでも車の判断に任せることの方がベターではないかと思わないではない。「人の判断の無視」したことにより、人一人の命が助かったという事実をどう考えるかと問われるなら、人命第一のスローガンは何にも増して尊重されることになるだろう。

 そこまで言われてもなお私は、この「人の判断を無視する」ようなシステムにどうしても納得できないでいるのである。確かにアナウンサーは「人の運転を補助するためのシステム」と言っていた。だが流れている映像はそうした言葉を明らかに裏切るものであった。

 この番組の特集は日本での開発状況を紹介するものであった。だから番組の中で外国での映像が流されていたとしても、日本で開発中のシステムとは違うのかも知れない。でも番組の中で特にそうした解説もなしに流された映像は、日本での開発の目的とは異なるようには思えなかったのである。それは「ヨーロッパでの走行運転の試行」を紹介するフイルムであった。

 運転席に座った中年の女性ドライバーは、雑誌片手ににこやかに微笑みながらこんな風に語る。「追い抜いていく車を見ていると面白いですよ。みんな本当に驚いています。『彼女は本当に運転していないの?』って」。車を追い抜くときに、その車をちゃんと運転しているかどうかを追い抜くドライバーが現実的にどこまで見ているかどうかの疑問もあるけれど、少なくともこの映像は女性が運転席に座り雑誌を読んでいてハンドルに両手をかけていない事実を追い抜くドライバーが確認していることを示している。つまりこの車の女性は運転していないのである。「それでもちゃんと車は安全に走っていけるのですよ」、そういうことをこの映像は誇示しているのである。

 仮に前の車が急ブレーキをかけようても、空から人間が降ってこようとも、車はドライバーの判断に委ねることなく自動的に衝突を回避することができるのだろう。でもこうした雑誌を読んでいるような映像が存在していることそのものが、「人間の運転を補助することを目的としている」との意味を逸脱しているのではないだろうか。
 この映像はあたかも運転手が、「居眠りしていてもOKです」、何なら「車に中で酒酌み交わす宴会をやっていても大丈夫です」と言っていることと同じか、少なくとも同じと錯覚させるようなアピールをしていることになるのではないだろうか。

 この映像は単なる宣伝フイルムであり、自動運転の安全をPRするための単なる示威の表現に過ぎないだろうことを理解できないではない。開発者は「ここまで安全なのです」とのシステムの完璧性をアピールしたいだけなのかも知れない。そのことは分る。それでもなお私は、こうした無人運転をアピールするような映像を公開するような行為は、つまるところ開発者の驕りではないかと思うのである。こうした無人装置は、例えば車庫入れの誘導システムだとか、衝突時に自動的に風船が破裂して運転者を守るエア・バッグやブレーキの効果を高めるためのアンチ・ブレーキ・システムなどとはまるで意味が違うのではないかと思うのである。

 技術の進歩は「人の判断」を不用とする方向へと動いていっているのかも知れない。リニア中央新幹線は2027年に東京〜名古屋間を40分、2045年に大阪までを67分で結ぶ運転を開始するそうだが、その運転は地上の制御室が管理し、運転席は無人だと聞いた。またイラクやアフガニスタンで米軍は無人飛行機による空爆を続けていて、国際的な批判を浴びている。無人機の操作は今は人間が行っているようだが、完全自動型のシステムは既に完成しているという。そのことは攻撃目標の選定、つまり人の殺戮の判断をもロボットが決定することを意味している。機械の判断は人に勝るのかも知れないし、コンピューターの演算速度は人間の脳細胞の活動を遥かに超え、しかも確実なのかも知れない。そうした事実を頭では理解しつつ、人間不在のシステムに私はどうにもついていけないものを感じているのである。


                                     2013.11.15    佐々木利夫


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