放射に汚染された水の管理について書いたのは先週のことである(別稿「汚染水の行方」参照)。放射能は色々な形で人びとの気持ちに影響を与えることは分っていたけれど、なかなか日本人として共通な意識にはなりにくいことも同時に分ってきた。

 ところで次の文は、元日本原子力発電理事が朝日新聞に発表した「東京五輪」に関する意見の一部である(2013.10.1、朝日)。

 「2020年夏季五輪の東京開催が決まった。・・・2020年に原発はどうなっているのだろう。・・・(汚染水問題が)『・・・足を引っ張る』・・・といった発言や言説が飛び交い、地元では反発やいらだちを感じる人が多かった。・・・福島県議会も、・・・原発がある地元の4町も、全10基の廃炉を求めている。だが、国も東電も実現を約束していない。『福島の地に原発は一基たりとも復活させない』。被災者のせめてもの願いさえ届かない。」(元原子力発電理事、北村俊郎)。

 彼はこの意見の末尾のほうで「私たち被災者は原発事故以来、仮の場所で仮の人生を過ごしている・・・」と書いているから、彼自身が福島出身者なのかも知れない。だから「五輪に向けて福島をなんとかせい」との声を上げたかったのかも知れない。

 でも「元」とは表記されてはいるけれど、この文章は日本原子力発電の理事としての肩書きを用いての発言である。単なる「福島在住者」としての個人的な意見ではない。肩書きからして彼は少なくとも我々よりは「原子力」についての知識を有し、理解もしているはずである。その彼が「福島の地に原発は一基たりとも復活させない」と言っているのはどうしたことだろうか。言葉としての意味が分からないというのではない。また発言の内容が心情的に理解できないと言うのでもない。でもどうして「福島」だけを掲げたのだろうか。原発の復活や再稼動は、「福島以外の地」でならば認めてもいいということなのだろうか。

 一つには「安全」に対する不安があるのかも知れない。どんな安全にも「絶対」つけることなどできない以上、福島に万が一、百万が一の危険も与えてはならないとする意気込みがあったのかも知れない。だとするなら、その心情は分かり過ぎるほど分る。だが、そうした危険負担に関して「福島だけは例外にして欲しい」との思いは、福島在住者の個人的な心情としてはともかく、原子力発電にかかわってきた者の発言としてはとうてい許されないような気がする。

 安全であることに絶対的な信頼が置けるのであるならば、「福島に原発を復活させる」ことにしたところで安全性が揺らぐことなどないはずである。もちろん東日本大震災により現実に原発が破壊されたのは福島だけである。だから「福島県の人には原発事故に対する特別な思いがある」ことを否定しようとは思わない。ならば彼は、肩書き抜きで「福島出身者としての心情的な発言である」としてこうした意見を主張すべきであった。

 もう一つは「福島復興への予算配布の増額」への思いが考えられる。福島はこんなにも苦しんでいるのだから、復興のための国や自治体の予算配布を特別に配慮して欲しいとの思いが、彼の頭の中で増幅したとも考えられる。それも分らないではない。

 ただいずれの考えを採るにしても、彼が肩書きを表示して少なくとも朝日新聞という公共的なメディアに意見を公表する以上、そうした思いは押える必要があったのではないだろうか。

 実は私には、彼の意見表明に対するもう一つの評価がある。それは「甘え」である。それは批判しているのとは異なり、同情できる甘えのような気がしている。それは「安全に対する甘え」でもあり、同時に「福島を救って欲しい」との甘えでもあるような気がする。

 彼が放射能の危険、強いては「原発の絶対的安全性」について理解していないとは思えない。もちろん政府なり公的機関が表明する、いわゆる「公開された安全性」については信頼しているのだろう。だがそれは無意識に「福島以外の地における安全」であると思い込んでいるのではないだろうか。公開された安全が世界に通用する安全であるならば、その延長上に福島も当然に含まれるだろうことくらいは彼にも理解できたことだろう。でも福島は「原発事故の当事者」である。そのギャップはいかに心理的、情緒的だと批判されようとも埋められるものではない。そこに彼の「国に対する甘え」が発生する原因があったのではないだろうか。

 そうした甘えは、「安全に対する意識」に大きな影響を与える。国や東電は「安全であること」、つまり「汚染が危険なレベルにない」ことを強調する。それは復興のために増大し続けるであろう費用への不安やオリンピック開催や貿易などに関して、外国に対する頑なまでの安全宣言などからも理解できる。そして一方において奇妙なことに被災地の住民もまた「安全神話に寄り添っていく」現象がみられることに気づく。もちろん安全宣言に不信感を抱く人も多いだろう。だが観光業者や農業生産者、漁業者などや地域の振興を願う多くの人たちもまた、国や東電と同様に安全宣言に寄りかかり、現在の危険や将来の被害を過小に評価しようとする方向へと動いていっているように思えてならない。

 もちろんそれは国の示した安全基準と言ったものを背景にしているのだろうけれど、それを鵜呑みにして少しも疑問を抱かないこと、むしろ疑問がそもそもないようなふりをして「安全宣言」に上乗りしたがっているように私には思えてならない。そして「復興、復興」の掛け声の下で、地元はもとより東電もまた国の支援による予算の獲得増大へと動いているように思えてならないのである。

 私はこの投稿に見られる彼の思いの背景に、こうした安全に対する意図的な自分に対する疑問の封じ込め、福島住民に対する過度な思い入れという甘えがあるように思っている。そしてそのことが「本当の安全」とか「本当の意味での原子力発電の将来」とは別次元にあるような気がしてならないのである。


                                     2013.10.18    佐々木利夫


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