汚染水について、私が最初に疑問を感じたのは高圧の水を利用して建物や道路などに溜まった放射能を洗い流すというか吹き飛ばしている風景を見たときのことであった(別稿「除染と水の行方」参照)。その疑問は放射能に汚染された屋根瓦や道路の側溝などを高圧水で洗浄したとしても、その洗浄された水の行方について考慮しなければ何の意味もないと思えたからであった。間もなくそうした方法では除染の意味がないことが次第に理解され、いつとはなしにいわゆる「高圧水による吹き飛ばし」の風景は消えて行った。

 やがてそうした汚染水は、現在でも放射能を出し続けている核燃料の冷却水などの後始末なども含めて、外部から遮断するという方法で管理することになった。その管理とは、当面は巨大なタンクへの収納である。循環式の装置を用いて、ある程度放射能水を濃縮しそれを外部に漏れないように管理するという方法である。

 その貯蔵された汚染水が巨大タンクの一部から漏れ出していることがつい最近明らかになった(別稿「鬱、毒ガス、汚染水」のB参照)。そしてその後、汚染水の漏れは様々な形で発生していることが報道され、既に海洋へ流出したものもあるとされている。

 安倍総理大臣は、7年後のオリンピックを東京へ招致するために開催地決定を協議するIOC委員会の席上、放射能漏れはコントロールされている、汚染水は一定の範囲内で完全にブロックされているとして安全を宣言した。だが、東京電力の社長は自らそのコントロールに疑問を呈し、政府と現場とで食い違いが生じている。その問題は間もなく開催される臨時国会で論議されるようなので、ここでは取り上げない。ただ、小さな汚染水の漏れは多発しており、いわゆる「完全にコントロールされている」状態になっているとは、少なくとも私の目からは見えない。

 そうした汚染水の漏れの原因は、言うまでもなく人為ミスである。東日本大震災や津波のような天災とも思える外部からの事故ではなく、タンクの傾きを考慮しないで満杯になるまで汚染水を入れてしまったとか、ホースのつなぎ先を間違ったなどのミスである。当然許されないミスであることに異論はない。あってはならないミスだとの指摘も当然である。

 ただ私はミスを責めるだけではこの問題は解決しないのではないかと思っているのである。あってはならないミスとして対応策を考えるのはいい。責任者を罰したり更迭したりするのもいいだろう。でもどんなに管理を徹底してもミスは必ず発生するのである。それを想定外と呼ぶか、はたまたポカミスと呼ぶかはともあれ、ミスは常に起こるのである。だからミスを責めるなと言いたいのではない。どんなにきちんとした対策を立てたとしても、人が考えた対策である以上、ミスは起きるのである。そしてそのミスは、「再発防止に努めます」とか、「申し訳ありません」、「土下座して誤ります」などでは解決も比較もできないほどの重さを持っているのである。

 更に私が言いたいのは、この福島原発に関連して何度も繰り返し論じてきたことではあるが、「放射能は煮ても焼いても処理できない」ことである。酸ならアルカリを加えて中和することで無害にすることができる。細菌や病害虫なら加熱したり消毒をすることで対処することができる。だが放射能は違うのである。原爆や、原子力発電などで、放射能を発生させることはできる。放射能は、皆無である状態から多数人を殺戮するような充満の状態へは、簡単に移行できるだけの力を人間は持つことができた。しかしその反対方向へのシステムを、少なくとも現在の人類は保有していないのである。そして、将来ともその可能性はないと言われている。現在考えられる反対方向へのシステムは、自然に放射能が消えていくのを待つのみなのである。しかもその自然に消えていく期間は、放射能の種類によっては数秒、数分というのもあるけれど、通常は半減期が数万年、数十万年にも及ぶのである。人の一生を考えるとき、数学的な言い方としては誤りだと思うけれど、情緒的には無限とも思える期間を放射能は残り続けるのである。

 もちろん汚染水の管理のようにタンクに封じ込める方法もあるだろうし、地中深く埋めてしまうことも方法としてはあるだろう。福島原発の汚染地域を通り抜ける地下水に対しては、事故のあった原発一帯を囲むように土地を凍らせて外部からの地下水の流入を阻止することも考えられているがそれもいいだろう。だが、放射能は煮ても焼いても始末できないという現実、そしてどんな管理も必ずミスを伴うという現実、そして更には、どんな場合もある種の想定をして管理することになるが、その想定を超えるような事態の発生はいくら確率が低かろうとも避けられないという現実、そしてそして管理は無限とも思える機関に及ぶという現実を重ね合わせるなら、私にはこの問題は人為によるコントロールの限界を超えているように思えるのである。

 現在日本の原発はその全部が停止中である。政府は再稼動を認める方針だと言われている。もちろん安全であることがその前提になっているとは思うけれど、果たして安全であることがどこまで保証できるのだろうか。私には、先に掲げた四つの要件、@放射能は消せない、A人はミスを起こす、B想定外の事故は必ず起きる、C無限とも思える期間の管理、をクリアーできるような安全など不可能のように思えてならない。

 しかも使用済みの核燃料の処分先は未定なままである。それは当然のことだと思う。前述した汚染水さえその行方は単に「長期間管理する」だけでしかないからである。使用済み核燃料はこの汚染水よりももっと管理が困難である。福島原発の事故の混乱が今でも続いているなかで、先の四つの要件が解決しないままで、引き受ける地域などないだろう。

 廃棄物の管理とは、とにかく「放射能を含んだままで数万年、数十万年地中に保管する」以外に方法はない。その無期限ともいえる期間を「完全に安全に管理する」との宣言以外に手段がないのである。そうした宣言を地元住民がどこまで理解できるか、万が一の危険、風評被害をどこまで許容できるか、私には到底無理なような気がする。結局はそうした金に任せた管理は「国民の税金なり、電気料金の上乗せ」をよって処理されることになるだろうけれど、金がものを言う世の中に、国民がそして地元住民が心から納得するとは私には到底思えない。

 私の気持ちはただ一つ、「放射能を消す技術」が開発されるまで原子力の利用は停止すべきであることである。恐らく放射能廃棄物もいずれ「酸を加え、高圧をかけ、高速陽子線を照射し、高温でコントロールする」みたいな科学技術が開発され、地球温暖化の元凶とされている炭酸ガスが食料としての澱粉や宝石としてのダイヤモンドに変えられるような時代がくるだろう。鉛を金に変える錬金術は夢想のものとされたけれど、放射性物質から放射能を消して「純金」に変えられる時代がいずれ来るかも知れない。

 そんな時代がくるまで、私たちは原子力から手を引くべきではないだろうか。電気は今の時代すべてを動かすエネルギーの根幹になっている。原子力発電からの離脱は、人びとの暮らしから便利さをある程度取り上げるかも知れない。いやいや「ある程度」を超えてもう少し不便な生活を強いることになるかも知れない。でも、そんな不便を我慢してでもなお、私は原子力は封印すべきだと考えている。


                                     2013.10.16    佐々木利夫


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汚染水の行方