ヨブ記のほとんど全編がヨブの受けた余りにも過酷な悪魔からの仕打ち(それも神の承認の下に行なわれた仕打ちであるが)に対するヨブの懇願や抗議の記録である。

 「・・・ヨブは口を開いておのれの日を呪った。・・・滅びよ、わたしが生まれた日、男の子がはらまれたと言ったその夜」(三章一節、三節)。このような仕打ちを神の仕掛けたゲームとは知らぬヨブに、神を呪うことはなかった。しかしあまりにも過酷な運命に、彼は自分が生まれたことを悔やむしかなかった。

 だが次第にヨブは神に疑いを持つようになる。こんなにも信仰厚き自分がこれほどの仕打ちを受けることに疑問を感じ始める。「・・・わたしを責めて、わたしに恥を負わせるなら 君たちは知るがよい、わたしを不法に扱いわたしを網なわで囲まれたのは神なのだ、と」(一九章五、六節)

 「げにわたしは救いを求める悩める者を救い 助け手のないみなしごを救ったのだ。・・・わたしは義を着、わたしの公義は 上着や冠のようにわたしを着た。わたしは目しいた者の目となり 足なえた者の足となった。・・・ところが今はわたしが彼らの嘲笑の歌となり 彼らの愚ろうの的となった。彼らはわたしを忌みきらってわたしを離れ わたしの顔につばきすることも辞さない。・・・わたしがあなたに向かって叫んでもあなたは答えず 立ち上がってもあなたはそっぽを向いておられる。あなたはわたしにつれなき者となり あなたの強いみ手をもってわたしを攻められる」(二九章一二、一五節、三十章九、十、二十、二一節)

 彼は自らの歩んできた行為がいかに正しかったかを述べ、それでもなお神を信じようとする。「もしわたしが貧しき者の望みを拒み、やもめの眼から力を奪いわたしのパンを一人だけで食べ、みなしごがともに食べることを許さなかったら、・・・わたしの手がみなしごに向かって上げたとしたら、わたしの肩が首から離れ落ち わたしの腕が胴から離されてもよい」(三一章一六、一七、二一、二二節)。彼は必死に自分が信仰に反した行いなど一度としてしなかったことを神に訴える。「もしわたしが金にわが望みを託し 純金をわが頼る所としたならば、・・・それもまた裁かるべき咎である。わたしは上なる神を裏切ったことになるからだ」(三一章二四、二八節)。

 「もしわたしがこんなことをしたとしたら・・・」、ヨブの訴えは延々と続く。ヨブ記のほとんどは過酷な運命に流されていくヨブの悲嘆と抗議の記録である。これ以上彼の嘆きをここにくり返すことはやめよう。ヨブは必死になって、たとえ僅かでも神の意に背き裏切ったなら、どんな罰を受けてもかまわないとまで言い切って我が身の信仰の厚さを訴える。だが神は答えようともしない。神は彼の無実を、そして誠実さを始めから承知である。知っていてヨブを悪魔とのゲームの賭け金にしたのである。だからどんなにヨブが必死に訴えたところで、神は既に悪魔にヨブの処分の一切を委ねた後であり、無関心を装うしかなかったのである。

 旧約聖書、新約聖書の「約」とは契約の「約」のことである。そしてその契約とは「神との契約」である。契約こそが人が生活し、生き延びていけることの基礎であり、同時に信仰の基礎でもあったはずである。「ああ、わたしに聞いてくれる人もがな。見よ、こここにわたしの判こがある。全能者よ、わたしに答えよ。わが論敵の書いた訴状。わたしはそれをわが肩に背負い 冠として、わがかしらにむすび わが歩みの数を彼に語り 君侯たる者のように彼に近づこう」(三一章三五〜三七節)。ヨブは契約に反したことなど一つもないことを、絶叫するように神へ訴えその答えを求め続ける。

 神はヨブのこんなにも悲痛な問いかけに対して、とうとう応答の場へと姿を現わす。しかし、神はあろうことかヨブに答えるのではなく新たな問いかけ、それも理不尽ともいえる問いかけで応じるのである。問いに問いをもってすること自体が非常識だと思えるのに、神はヨブに対して決して答えられないような重さと、あたかも不可能を強いるがごとき卑劣とも思える問いをもって応じたのである。

 「・・・わたしが君に聞くから、わたしに答えよ」(三八章三節)、神はこんな風に話し始める。「地の基いをわたしがすえたとき君は何処にいたか」(同四節)、「誰が地の量り方をきめたのか」(同五節)、「何の上に地の土台がすえられ、誰がその隅の首(おや)石を置いたのか」(同六節)、「海がその胎からほとばしり出たとき 誰が扉をもってそれを閉じ込めたか、」(同八節)。

 神はなんと自らを天地創造の唯一の絶対者の高みに置き、「そのときお前はどこにいたのか」と問いかけ、ヨブを「神(つまりわたし)の創った世界に住む矮小な個人」としての位置へ置こうとしたのである。神がこの世界を創ったことくらいヨブだって知っている。神が絶対者として君臨していることくらい、信仰厚きヨブは知り過ぎるほど知っている。そうした様々を理解しつつもヨブは、だからこそ我が身に加えられた耐えられぬほどの苦痛、理不尽とも思える責め苦に対し、「どうして私が・・・」と神に問いかけたのである。

 神のヨブへの問いかけはまだまだ続く。「君は海の源に入ったことがあるか、・・・死の門は君に開かれたか、嘆きの門を見たことがあるか。地のひろがりを君は見きわめたか、その広さを知っているならば告げよ。光の住む道はどこか、暗闇の場所はどこか」(三八章一六、一七、一八、一九節)。神の詰問は際限がない。「風の分かれ道はどこか、大雨のために水路を開いたのは誰か、氷は誰の胎から生まれたのか、天の霜は誰が生んだのか、君は・・・オリオンの結びを解きうるか、・・・金星を正しき時に導き出し 大熊座のもろ星を導くことができるか。君は天の法(のり)を知っているか、・・・」(同二四、二五、二九、三一、三二、三三節)。もうこれ以上、神の詰問を羅列することはやめよう。

 こんな問いかけをされてしまったら、ヨブに限らずどんな人だって決して答えることなどできないだろう。「天地創造を自らの手で行なった神以外には誰にも答えられぬ問い、回答不可能な問い、問われた相手が沈黙するしかない問い」を、神はあたかも機関銃のように発し始めたのである。相手が絶句するしかない問いを矢継ぎ早に発することで、神はヨブの訴えを斥けようとする。

 「神を非難する者はこれに答えよ。・・・君は神のような腕を持つと言うのか、神のようにその声をとどろかすことができるか。・・・天が下のすべてのものはわたしのものだ」(四十章二、九節、四一章三節)。ついに神はここまで言い放つ。ここまできたら、神の声はもうヨブの訴えに対する答えではない。権力者の弱者に対する恫喝である。神は誠実なヨブの悲痛な問いかけに声を失ったに違いない。神はヨブの筋の通った訴えに答えることができず、脅かすことでその訴えを取り下げさせることを目論むしか方法がなくなるほどにも追い詰められたのかも知れない。それでもなお私は、この神の行動をあきれるくらいにも卑怯だと思う。卑劣だと思う。

 ヨブは決してイカロスを夢見たのではない。翼を焼かれるほど神に近づき過ぎたのでもない。神を信じ、敬いつつ、「どうして私だけが・・・」と天を仰いだだけである。それがどうしてこんなにまで神に声を荒げさせることになってしまったのだろうか。

 これは、権力者は切羽詰ればこんなにも力任せの手段をとるのだということを示す好個の例かも知れない。「お前は神になったつもりなのか」とまで言われてしまったら、そしてそれを神自身の口から言われてしまったら、言われたヨブには沈黙する以外にとり得るどんな手段が残されているだろうか。神から全部を否定されてしまったヨブにとって、次の言葉以外に選ぶ道はなかった。
 「・・・御覧ください。わたしはいと卑しい者です、何といってあなたにお答えできましょう、わが手を口にあてるばかりです。・・・くりかえしません、・・・これ以上申しません、」(四十章三、四、五節)。ヨブはついに口をつぐみ、訴えを取り下げた。理解したからでも、納得したからでもない、ただただ神の恫喝に敗北したのである。なんたる神の傲慢であろうか。


                                  ヨブ記4 「神のゲームの結末」へ続きます。


                                     2013.8.1     佐々木利夫



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