ゲームは突然終了する。私にはこのゲームの勝敗が分らない。確かにかくも過酷な仕打ちにもかかわらずヨブの信仰が消えることはなかった。旧約聖書の一部としてヨブ記は今日まで伝えられ、その内容は神と悪魔のゲームだったのだから、答えは最初から「神の勝ち」と決まっていたのかも知れない。

 前回(ヨブ記3 「ヨブの訴え」)でも述べたように、この結末は決してヨブの納得によるものではなかった。彼はただ強大な神の力に屈したに過ぎない。確かにヨブは「わたしにわかりました。あなたは何事でもおできになる方、どんな策をも実行できる方であることが」(四二章二節)と言った。だがそれが神を敬う言葉だとは私には思えない。強大な神の力を承認しただけであり、ヨブは圧倒的なその力の前に屈したに過ぎないとしか思えないのである。

 物語の始まりは悪魔とのゲームであったにもかかわらず、神は悪魔に対して勝利を宣言することすらしない。「今やわたしの眼があなたを見たのです。それ故わたしは自分を否定し 塵灰の中で悔い改めます」(四二章五節)。ヨブは最後にこう答え、「終曲」と題する僅か数節を残してこの壮大な「旧約聖書 ヨブ記」は終わる。この一言をヨブが放った信仰への回帰の言葉だとは、私には到底思えない。私にはこの一言がヨブの血を吐く挫折のうめき、そしてそのまま悪魔の勝利の雄叫びのように思えてならない。

 神がヨブを救うことに決めたのは、ヨブ記全四二章一七節の最後の章の一○節から一七節までの僅か七節にしか過ぎない。それも神はヨブに謝罪するのではなく、彼の失ったかくも過酷な人生に対して、単に「ヨブの運命を転換された」(四二章一○節)として、その回復の内容を羅列するだけのことである。

 「・・・ヤハゥエはヨブのすべての持物を二倍にして返され、・・・彼の所にすべての兄弟・・・姉妹・・・知人がやってきて、・・・彼の上にもたらされたすべての不幸について彼を慰め」(四二章一○、一一節)からヨブの回復は始まる。そして更に神は「ヨブの終わりをその始め以上に祝福され、羊一万四千・・・駱駝・・・牛・・・驢馬・・・とを与えられた」(同一二節)とあるから、これで彼が失った財産や親族からの信頼はとりあえず戻ったことになるのだろう。回復は続く。「・・・彼に七人の男の子と三人の女の子が与えられた。・・・全地にヨブの息女たちのように美しい女は見つからなかった。その父は彼女たちにその兄弟たちと一緒に嗣業を与えた」(同一三、一五節)のである。

 これが回復のすべてである。それでこのゲームを終了させてしまっていいのだろうか。確かに新たに得た財産は失った時よりも増えたかも知れない。社会的・親族的に失った信頼も回復したかも知れない。失った10人の子どもも同じ数だけ新たに与えられたかも知れない。でもそれで神からの回復は済んだと考えてよいのだろうか。ヨブに与えられたこんなにも過酷な運命の様々が、これで帳消しになったと神は本当に思ったのだろうか。

 神はヨブにどんな試練を与えようと、ヨブにどんな苦しみを与えようと、決して神を呪うことはないとの思いに凝り固まっていた。そうした思いが、この結末で解決したと本当に思ったのだろうか。考え方によっては、ヨブの信仰が裏切られることはなかったのだから、神は悪魔に勝ったのかも知れない。しかし、その勝つことそして勝ったことにどんな意味があったと言うのだろうか。

 万能の神なのだから、SFじみた結末になってしまうかも知れないが、時間をスタートに戻して悪魔とのゲームを始める前にまで戻してしまえるのなら、それはそれで分らないではない。ヨブの記憶の中からこの過酷な運命の一切が消え、最初から悪魔とのゲームがなかったことにしてしまえるのなら、私にも理解できる。
 だが、ヨブの受けた記憶は、こんなことで回復などしない。失った財産は戻ったかも知れない。しかし、財産をすべて失ったあの絶望、全身の腫れ物をかきむしりながら灰の上で座っていたあの屈辱は癒されることなどないだろう。10人の子を失い、新たに10人の子を得た。だからといって失った10人の子の記憶を彼の頭から消すことなど誰にもできはしない。

 ヨブ記の最後の文章は「・・・ヨブはこの後百四十歳まで生き、その子らの子らを四代までも見ることができた。そしてヨブは年老い、日満ちて死んだ」(四二節一六、一七節)である。長寿と穏やかな死もまた、神の与えた救いになっているのかも知れない。ひ孫を見たことも救いになっているのかも知れない。神と悪魔のゲームの期間が、ヨブの一生140年のどの程度を占めたのか、この記録は語ってはいない。しかしたとえ短い期間であったにしろ、回復と言う形で神が自らの責任を認めたあのすさまじい仕打ちの過去をヨブは決して忘れることなどないだろうと、私は確信を超えて信念とも思えるほどに感じている。神の行なった回復はたゆまぬ信仰への報酬ではなく、悪魔に実質的に負けたことを自認し、自らの罪過の後悔としての報酬なのではないかと、私は頑なに思いこんでいる。

 こうして私のヨブ記は終わった。神の独断に対する批判じみた文章になってしまったが、だからといって旧約聖書が信じられなくなったわけではない。また聖書をとりまく宗教世界を馬鹿にしたいと思ったわけでもない。むしろ逆である。宗教としての聖書をそれほど私は内に持っていたわけではないけれど、だからと言って聖書を否定するつもりもない。
 ヨブ記が書かれたのは、紀元前四百年頃ではないかと言われている(山本七平 旧約聖書物語P335 徳間文庫)。これまでの二千数百年にもわたって、ヨブ記は旧約聖書の一部分として生残ってきた、いや語り継がれてきたと言っていいだろう。

 そんなにも長い期間、旧約聖書自身がこの物語を身の裡に含ませてきたことに、私はどこか聖書の持つ奥深さを見る思いがしている。だからと言って、聖書への信頼が深まったわけでも、聖書を信じてみようかと思い立ったわけでもない。それでも、この矛盾したヨブと神の対決があからさまに語り継がれてきたことに、どことない旧約聖書の懐の深さを感じたのである。私の興味はまだ新約聖書にまでは届いていないけれど、それでもなおこのヨブ記に触れたことで旧約聖書の様々が一層好きになった自分を感じている。

 四篇に分けた私のヨブ記は、これで終わります。私のエッセイの1000本達成の記念碑でもあります。つたない偏見に満ちた私の駄文にお付き合いいただいたことを感謝します。ありがとうございました。


             ヨブ記 1 「神と悪魔のゲーム」、ヨブ記 2 「翻弄されるヨブ
             ヨブ記 3 「ヨブの訴え」、     ヨブ記 4 「神のゲームの結末」

 (付記) 実はヨブ記を書き終えて、まだ心の中に引っかかるものを感じています。しつこいことは承知の上ですが、この際、そうした思いも書き綴ることにしました。「ヨブ記付 書き終えて」を予定しています(作成中)。


                                     2013.8.3     佐々木利夫


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ヨブ記4・神のゲームの結末