レストラン、ホテルなどのメニューと提供された食材の食い違いは、驚くほどの数にのぼっている。こうした事例が発覚したのは10月の末頃だったと思うけれど、11月も終わろうとする今でも自白合戦は続き、このごろの新聞は自白者の思惑通り小さな囲み記事でしか取り上げなくなっている。

 ただ、そのどれもが「安い食材」を「高い食材を使ったかのように見せかけて高く売る」ことに限られており、間違っても逆のケースは皆無であるのは変わらない。それらのことごとくが「誤表示であって意識的なものではない」と言い訳しているのは、企業倫理を通り越してそうした反省の自覚のなさには鼻白ろんでくる思いがある。

 このことについては既に発表しているので(別稿「偽装メニュー物語」参照)、改めてここで触れるつもりはない。人間の舌では判定できないかも知れないが、例えばDNN鑑定であるとか仕入内容をチェックするなどで事実としての商品の違い、理論的な物質や生産地域の違いなどは解明できるかも知れない。もっともそうしたところで、「味」そのものを判定する手法はきっとないことだろう。

 こうした記事を連日ながめながら、私には科学的、物理的、もしくは論理的にもどうやっても判定できない偽装が残り、それはもしかしたらそうした偽装は生残ったままになってしまうのではないかと、私には思えてならないものがある。それは最近の朝のテレビを見ていてふと感じたのである。ある食品を作っている工場の担当者のこんな話であった。「・・・、こうすることによって塩の角がとれて、まろやかな味になるのです」(2013.11.9NHK BSプレミアム 朝6:30)

 この話しに疑問を感じたのではない。こうした話しに似た表現は食品に限らず、世の中には溢れかえっていることに気づいたからである。例えば化粧品の効果、溢れるほどにも氾濫している健康食品の効能、食べるだけですぐにモデルのようなスタイルが得られるかのようなノンカロリー食品の効用などなど・・・。

 考えてみれば商品の宣伝というのは、多かれ少なかれこうした誇張から過大表示まで連続して存在しているのかも知れない。私が気づいた「まろやかな塩味」にしたところで、聞き流してしまえばそれまでのことである。「まろやか」とはどんな意味かなんてことは、通常は気づかずに耳を通過してしまう。かりに多少気になったとしても、「またコマーシャルか」との思いの中にそうした気がかりは埋没してしまうのが普通であろう。

 そうした意味では私たちは氾濫するコマーシャル用語、それをまとめてコピーと呼んでいいのかどうか必ずしも分らないけれど、そんなコピーに無感覚になっている。だからコピーは更に過激な表現へと進化して行き、私たちの耳は更にそれをも無感動な分野へと追い込んでいくことになる。

 だったら「まろやか」だろうが「ふくよか」だろうが「まったり」だろうが、どうせ私たちの無関心の前に効果がないのだとしたら、それはそれで意識する必要などないのかも知れない。それでも商品の差別化はこれでもか、これでもかと私たちにその効能を訴え続ける。そしてそうした差別化に、いつの間にか巻き込まれている自分を感じることがある。それは詐欺ではないのかも知れない。でも「角が取れた塩の味」という言葉につられて私たちがその商品に手を出し、その「角の取れ具合」をまるで感じることができなかったとしたら、そして作る側も自分勝手な思い込みではなく、「事実としての角の取れた味」を他者に証明ができないのだとしたら、その表示を「単に感覚を示したコピーです」と許してしまっていいものだろうか。

 今回のレストランやデパートの偽装メニューの問題は、「伊勢えび」とか「○○和牛」と表示していたにもかかわらず、産地などを偽装していたものがほとんどであった。そうした意味では偽装はなんらかの形で確認できる(その形が少なくとも人間の舌でないことが残念だが)ものであった。

 たが「お客様に感想によるものです」という健康食品や化粧品、更にはサプリメントなどに表示されるコマーシャルに、私たちは「そんなものは一切信用しない」という対処以外にまるで方法がないのだろうか。「角が取れた味」という表現を信用してその商品を求め、結果として「角が取れた味」を認識できなかったとき、それは「単にお前の舌が鈍いからなのだ」ということを自分に言い聞かせることしかできないのだろうか。

 そのことはいい。私の舌が鈍いと言われたところで、結果的に自己責任ということなのだろう。ただ、そうした「証明できない表現」が飽くまでも消費者の自己責任という形で際限もなく広がっていく現状に、どこかで歯止めが必要なのではないかと思い始めているのである。それはむしろ法律というよりは企業の倫理の問題なのかも知れない。

 産地や商品の偽装までやっている世の中である。こんな時代に「味の表現に関する企業の良心」みたいな考えが通用すると考えるのは私が甘いからなのかも知れない。でも「過激化する味の表現」と「そうした表現を無視する消費者」といういたちごっこが続く限り、無責任な世の中という風潮がこれからも益々はびこっていくのではないだろうか。そのことが私には気になって仕方がない。

 こうした偽装が、メーカーの知らないところで行われているケースも発覚し、ついに人命にかかわるような問題まで引き起こしてしまった。あるレストランが精肉として仕入れたものが、加工肉だったと言うのである。私が肉の卸元であるとする。安い肉に、例えば卵黄とピーナツバターと牛脂の混合物を注入すれば、松坂牛に劣らない味が出せるような技術を開発したとしよう。まさに特許もののわが社の開発技術である。最初は加工肉として販売していたのだが、なにしろ天下の松坂牛に劣らない味である。ついつい「加工肉である」との表示を外して和牛として販売するようになった。さあ原料の表示をどうする。卵もピーナツもアレルギーの原因となるアレル原だから、我が誇り高い和牛にそんな食品表示をするわけにはいかない。この豪華で美味なステーキを食べた子どもたちのなかには、確実にアレルギーを起こす者がいるだろうし、中にはたちどころにショック症状だって起こすことになるだろう。

 偽装の問題は今や際限のない人間不信にまで拡大しようとしている。利益追求が現代社会の最終的な目標になってしまっているのかも知れない。世界中の人間が経済競争という渦中に取り込まれ、幸せや満足などが全部金銭で評価される時代になってきている。「ばれなければ何をやってもいい」みたいな風潮が社会に広がり、「ばれても、どうしたら金儲けを維持できるか」に執心するのが、私たちなのだろうか。そうした中で、「高級なもの、有名なものは信用ができる」という私たちが抱いてきた神話みたいなものが、今や音たてて崩れていこうとしている。


                                     2013.11.30    佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



証明できない偽装